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2011.11.13 初 恋① 2011年2月27日

ついついここまで書いてしまいました。

最近私の恋愛話を聴きたいという方はいらっしゃいます。

お仕事の合間に息抜きとして、読んでくさい。

私の育てられた環境は多分日本人の5060代ぐらいの方と近いかも

しれません。

学校では恋愛は絶対禁止でした。恋愛する人は先生と学生も特別の目線に

されました。私のようなアホぐらい気真面目な人間はもちろん人に指に

指されることを絶対にしないでしょう。

(何人の男性の気持ちを無駄にしていました。今は後悔しています。けれども

もし早い時期恋愛したら、とっくに誰かと結婚して、今は日本にはいないはず。

あの時ラブレーターぐらい貰うと授業に集中できないぐらい緊張で、

先生に知られたら、どうしようと。私はそんな経験はではなかったが、

妹はそうらしい。そのために成績が落ちてしまったそうです。笑)

社会に出て、美容室をオープンして、「個体戸」になりました。

あの時、個人的な商売は社会的な地位もなく、差別もありました。

さらに農村戸籍の私は、もっと不利でした。

2,3年経つと、社会環境はだんだん変わってきて、都市戸籍の優越感は

だんだん崩壊していき、個人的な商売は社会的な地位も上がってきました。

いきなり私のところに仲人が増えました。

「その人は都市戸籍ですよ・・・・・・」

「いいえ、私はね、農村戸籍の人としか付き合わないですよ・・・」

こういうふうに返しました。

私は小さいころから、何時も気に入らない社会風習など

に逆らっていました。

 一人の女の子は美容室を経営することだけで目立ちます、

さらに美容室は人が出入り場所だし、社会的な差別を含めて、

何にもしなくても、変なうわさがされます。

それは避ける為に、その町で恋愛していなかったし、映画館まで

足を運ばないようにしました。(そんな気持ちをさせてくれる人が

いなかったから。)

それでも私についてのうわさはその町で飛んでいました。

これほど言われて、私は一体何をしたでしょうと納得できませんでした。

社会に出たばかり私は、全て一枚の白紙のような潔白な自分がこんな勝手に

汚されるなんて、心から許せなかったのです。

それは私はその窮屈の町からどうしても出なければならない理由でした。

色々な遠回り道を通って、やっと大連の開発区に出ました。

その経験は私はすでに「yuyiの物語」で書いていました。

やっとちゃんとした給料がもらえるところで落ち着きました。

しばらくすると、ある日会社の近くいる占い師の前から通っていた時、

その方はいきなり「貴方はこれから大きな変化が訪れます。」と言い出しました。

「えっ、私? いいえ、ないでしょう。」

商売の手段だと思っていました。けれどもその人の話はよく覚えていました。

せっかく落ち着いたから、何の変化もされたくありません。

一週間ぐらい、ある土曜日の昼に、「今日のお昼は日本人のお客さんが来ます、

一緒に食事する女性はいないから、付き合ってくれませんか。」とある

不動産の会社の運転手さんからの電話でした。

この方はその時の会社の社長と同じ市の人なのでよく遊びに来てくれたため

親しくなったのです。

その時、お客さんの接待は必ず女性を一緒に食事させる習慣がありました。

私はついた時、食事はすでに始まっていました。

部屋に入ると真正面に座っていたのは、あまり見かけない清潔感で、

真っ白のシャツを着ている30代の男性です。他にはその

不動産会社の社長や通訳とその運転手さんと他の2人ぐらいの

女性もいました。

私はその男性のそばに座らせました。

日本人だと思ったら、彼は中国語をしゃべっていました。

「何処の方ですか?」「上海です。」

2011227

 


2011.11.13 初 恋②2011年2月28日

これ以外は何を話したか覚えていませんが、お互いの手相を見ていたのを

覚えています。

食事後、ダンスタイムになります。

彼とダンスするとき、年齢どか、実家どか色々聞かれました。

「給料はいくらですか?」

中国人同士で給料ぐらい聴いても普通のことです。

450元です」(5500円ぐらい)

「本当ですか。」

「ええ」

「もしお金があったら、一番したいことは何ですか。」

「大学に勉強に行く。」

中国では一度大学に受からなければ、二度とチャンスはありません。

浪人も認めません。みんな浪人のために年齢を変えたりして

いろいろな工夫していました。

けれども傍聴生として、行けます。

学校から出てきてから、

いつか大学にいくという考えは妙に頭から離れませんでした。

私は現実的じゃないと何時も家族に言われています。

「今夜大連市内の“富麗大酒店”に泊ります。食事でも付き合って

くれますか。安心して、変なことはないから、食事だけ。」

「今日は実家に帰らないと、明日妹の結婚式です。」

「大丈夫です、夜ちゃんと家まで送ります。」

「分かりました。」私は迷いもなく、承諾しました。

「連絡できる電話番号を教えてくれますか。」

人の目の前で、まずいと思って、カウンタで連絡先を紙に書いて、

またダンスするとき、さりげなく彼の白いシャツの右上のポケット

に入れました。

「頭がいいね。」彼は言いました。

その時携帯電話が重くて大きかったです。“大歌大”(歌の字ではありませんが、前の半分です。日本語にはない文字です。) と呼ばれていました。

それを持つ人間はお金持ちだと思われました。みんな手にして歩きます。

私に連絡できるのは会社の電話しかありませんでした。

土曜日に会社の電話も取れないので、私は知り合いの店の電話

番号と、会社の電話番号を教えました。

ダンスが終わって、私と運転手と社長さんと彼が車に乗り、

大連の市内に向いました。

車の中で「日本のお信さんはまだいますか。」と彼に聞きました。

その時「お信」という日本のドラマを見ました。

日本は中国と同じだと思っていました。

(日本は男尊女卑の社会だと全然知りませんでした。)

 彼女の子孫はまだいます。どうして、そのような女性に

なりたいですか。女の子は恋人を作って結婚したほうがいいん

じゃないですか」と彼は言いました。

ホテルに着いたら、急にこの方の名前も知らないと思い出し、

チェックインしている彼に近づき、そこの書いた

彼の名前を覚えました。

それで分かれて、私は運転手さんたちと一緒に開発区に戻りました。

私は直接に知り合いの店に入り、彼からの連絡を待つことにしました。

待っていても電話が来ないから、私から電話しました。

彼の部屋につなげて「私は誰ですか、覚えていますか。」

彼はびっくりしたようで、少し迷ってから「さっきの董翠さんでしょう。」

私はほっとしました。

「会った女性に全部同じことを言うではないかと。」

彼が笑いました。

「そんなことをしないよ。こちらに来ますか。タクシーで。

その金を払いますから。」

「何処に、部屋に?」私は無意識に普通に聞いていました。

「いいえ、ロビーで待っています。」

タクシーに乗り、また大連の市内に向いました。

私は時間予測を間違えていたか、約束した時間より20分ぐらい

遅れていました。

日本人はすごく時間を守ると聴いていましたが、もう待ってくれない

じゃないですかと心配していました。 

ホテルの扉から入ったとたん、彼は目の前のソファーから立ち上がって

ニコニコして私を見ていました。気品の漂う優しさとで爽やかさに

ドキッとされました。

その瞬間、暖かい空気が全身を包むように、私は恋に落ちました。

このような男性が好きなんだと初めて気づきました。

長い間に恋が出来ないと家族に思われていた人間ですが、

その私は恋に落ちてしまいました。

食事するとき、彼はチャーハンとスープしか注文していませんでした。

「ホテルの料理は高いから、これでいいですか。」

普通の中国人が面子のために、絶対口にしないことでしたが、

その話を聞いても私は特に反応はなく頷いただけでした。

この方はご飯を食べるお金もないんだと一瞬頭で考えていました。

けれども何にも食べなくても、この方と一緒に座るだけで、

幸せでした。

彼は自分について色々な話をしていました。

離婚のこと、仕事のことなどなど・・・

私はただ聞いていただけでした。

「こういうホテルで待ち合わせるとき、女性は男性の部屋に行くと言ったら

変に思われますよ。」

「変?どうして?」

中国人は外で会う習慣はありませんでした。

大抵家どか、ホテルでも部屋の中で普通でした。男性と一緒に同じ部屋に

入っても、変な雰囲気を感じたことはありませんでした。

「中国はまだ大丈夫かもしれません、日本は絶対だめです。

まあそのうちが分かるから。」

食事を終えて、ホテルから出ようとしているところで、

彼は「妹にプレゼントを買う?」

私は止めました。ご飯を食べるだけであれほど節約しているのに・・・・

ホテルから出ると、彼は私の手を握って、歩きながら話していました。

そのままタクシーに乗りました。

「お家に送りましょう。お家は何処?」

「私の家に?このタクシーで?遠いですよ。」

「大丈夫、気にしないで・・・」

チャーハンしか食べられない人間は、あの田舎までタクシーで行く?

一体どういうことでしょう。

これほど手を男性に握られるなんて、初めてです。けれどもその手から

抜き出そうと思っていませんでした。

2011228

2011.11.13 初 恋③2011年3月2日

これは1994年の夏の話です。あの時中国の経済は目覚め始まったば

かりでした。日本のバブルはすでに中国語のアクセントの第4声のように、

斜めに下がり続いていました。

(中国語を勉強したことはない方が、第4声はどんなイメージかこれで分かるでしょう。)

彼は私より9歳年上で、日本の会社で勤めていました。その時彼は

日本はすでに終わり、これから中国の時代になると判断して、

会社の社長を説得して、中国に投資させようとしていました。

そのための視察で、中国のいろいろのところを回っていたのです。

タクシーは私の指示通りに走り出しました。

まさか今日は男を家に連れていってしまうじゃないですか。これはまずいです。

あの時、女性は男性を家まで連れてくると、まあ恋人だということを確定されます。

どうやって両親に説明したらいいでしょうと頭で考え始めました。

幸い夜でした。昼間だったら、もううわさが町中に飛びまわってしまうじゃないですか。

あの時の夜の大連でもそんなに明かりがいっぱいではありませんでした。

大連から出ると、ますます暗くなっていきます。

田舎に入ると真っ黒でした。道路の両側には山と畑です。

故郷の山にはあまり森はなかったです。

農作物はとうもろこしがメインです。夏ごろ、とうもろこし畑は私より高いです。

気味が悪かったです。

道路は土のままで、凸凹でした。車はそれほど早く走れませんでした。

時下まで2時間近くかかりました。

彼は運転手を気遣って、ずっと運転手と話していました。

家に着きました。

庭にテーブルや、食器などまだ綺麗に片付けていないまま散乱していました。

結婚式の前日、女性の実家は親戚などを集めて、宴会を開きます。

その時、レストランではなく、全部家でやります。庭で臨時的な大きな

キチンを設け、料理を作ります。テーブルは家から庭まで、庭から隣の家と

庭、また通りまで並んでしまいました。

その宴会に私は参加していませんでした。

私は両親に「会社のお客さんで、食事が遅くなり、心配して家まで

送ってくれました。」とごまかしました。

 

彼は両親といろいろな話をしていました。

多分30分ぐらいで、家から出来てきました。

私は彼を見送り、彼はタクシーと乗ろうとしたとき、

「日本に帰ったら、お金を送ります。今の会社を辞めて、

行きたい大学に行きなさい。」と言い残して、タクシーに乗り込みました。

タクシーはすぐに暗闇に消えました。

急に「今彼は何を言った?」と耳を疑いました。

今の暗闇に消えたように彼はもう消えました。                   

明日上海に帰るそうです。また会う機会さえもないでしょう。

何も期待できないよ、ただの夢、夢・・・と自分に言い聞かせていました。

二日間たつと、全て現実に戻りました。

三日間後のお昼、いきなり同僚に「電話です」と呼ばれました。

電話を取ったら、彼でした。

201132

2011.11.13 初 恋④2011年3月3日

「このまま消えたのではないかと思っているんじゃないですか。今杭州に

います。週末に日本に帰ります。とりあえず国内の携帯番号を教えます。

電話したいときにしてください。」彼は言いました。

それから毎日必ず1回ぐらい電話をしてくれました。

彼は日本に帰ってから、三日間後、電話をかけてくれました。

「どこどこの銀行に董さんの名で10万円を振り込みました。

取りに行ってください。」と言いました。

その時私は銀行口座さえも持っていませんでした。

どうやって振り込んできたか分かりませんでした。

私は会社の社長の秘書を誘って、一緒に銀行に行きました。

(1人で手続きが分からないから)

今は円高だとみんな思っているでしょう。

あの時もっと高かった。10万円なら今は8000元までぎりぎりですが、

あの時、1万元以上になりました。

私は1万元と何百元のおつりまで両替したのを覚えています。

その時国の政策で田舎では「万元戸」を目指すというスローガンで、

一年の収入は1万元まで頑張ろうということでした。

 私は一夜で「万元戸」になりました。

これで本当に学校に行けるんだ、夢じゃない、現実になったんだと

急にあの占い師の話を思い出して、「なんて分かるの?」

と聞いてみたかったですが、しかしそれから一度も占い師の姿を

見かけませんでした。

あの占いはただ偶然なのか、運命的なのか、今も分かりません。

私はまず向ったのは大連の外国語学院です。

そこの日本語学科は有名です。

ちょうど社会人向けのクラスがあるので、そこに決めました。

会社を辞めて、会社の寮から出来て、学校の近くでみんなと一緒に

部屋を借りて、人生の新たなスタートを始めました。

彼は毎日日本から電話をかけてきました。

学校を通る途中に公衆電話がありました。

一日必ず1回ぐらい朝か昼かそこで彼の電話を待っていました。

彼は朝ごはんの後か、お昼の時間を利用して公衆電話でかけてくれました。

私は「日本に行きたい」と言い出しました。

彼は「日本はよくないよ、女性は水商売、男性は肉体労働しかないです。

みんな中国に帰ったら、本当のことは誰も言わないだけです。それで私も

そろそろ中国に戻るし・・・」と言いました。

私を説得するために、彼は日本から「東京にいる上海人」という本を

送ってくれました。

私は一気に読み終えました。主人公はあんまり悲惨で、全体的に

暗いイメージしかありません。

日本はこれほど水商売が氾濫している国なんですか、

一体どういう国でしょう。

世間を知らない私は一時的にがっかりしました。

(けれども事実上でも水商売は一つ産業として日本ほど盛んでいる国は

あるかな・・・・)

それほど開放されない中国人にとって、水商売は売春婦に

近いものでした。人に知られてはいけないことでした。

一番早い時期に日本にやってきたのは上海人です。

みんなともかくとして、綺麗に変身して、いかに成功者の

身振りして、中国に帰るときれいごとしか語らなかったのです。

あの時代大抵上海人は東京へ、北京人はニューヨークへ行くそうです。

だから「北京人はニューヨークにいる」と「東京にいる上海人」

という本や映画まで誕生しました。

一ケ月ぐらい経つと、ある日彼は、「来月上海に行くから、董さんも上海に

きてください、お誕生をお祝いします。」

中国人の誕生日はお正月と同じ旧暦で計算しましたが。

10月15日の新暦は彼は計算して、変更してくれました。

私は行く前に、一旦実家に帰って、一応両親に報告しないと・・・

「明後日上海に行くの。」

「上海?」父が驚きました。あの時私達にとって、上海も外国みたいな物です。

「どうやって?」

「飛行機で。」

「飛行機?」父はもっと驚きました。

そこまででした。これ以上父も母も何にも聞かなくなりました。

父の祖先から、その時まで飛行機に乗る人間はいませんでした。

私は初めてだそうです。

小さいごろから正直で頑固な私は有名です。

私は言っていることをみんな信じます。私はやっていることは

両親は何にも干渉しません。だからやり放題だったし、

ほたらかされてもいました。

すぐの下の妹はちょうど逆で、ピンチのときにいつも「お姐さんが

言ってくれれば、みんな信じるから、助けて・・・」って

この通り私は始めて飛行機に乗って上海に飛びました。

汽車も船も乗ったことはない私はそれからずっと飛行機です。

2011年3月3日

 


2011.11.13 大 局2011年3月8日

 

今日はまた録音してきました。

 

帰りは中央線に乗ったら、優先席はずですが、優先席を書いていないから、

 

座りました。

 

途中で1人の女性が2人の子供の1人を抱いて、一人ベビーカに載せて

 

乗ってきました。反対側の1人の年配の男性がすぐに立ち上がって、

 

「どうぞ座ってください。」と席を譲りました。

 

その方をよくみると、マスクをして、まっすぐに立てられないようです。

 

一見に健康的じゃない方です。

 

私はじっと座れなくて、立ち上がって、ドアに立っている彼に近づき、

 

「どうぞお座りください。」

 

彼は「いいえ、もうすぐ降りますから。」と言いました。

 

遠慮しているかなと思って、もう一度勧めました。

 

「いいえ、いいえ、すぐに降りるから。」

 

そして、いきなり私に近づけて、「美人に声をかけられるほうが、

 

席を譲られるよりうれしいです。」と言いました。

まあいいや、席に戻ろうと振り向いたら、すでに1人の男性の方が

私の席に座って、目を閉じています・・・・・・

ということでした。

本題に戻りましょう。

また余計な話かもしれません。

日本は私にとって始めての外国でした。

多分沢山の方も私は書いた「自分のためにしか頑張らなかった」という文章を

読んだでしょう。(チャイナリニアのHPの「語学学習ヒント」に載せています)

それは1998年にある外国人の日本語弁論大会のために

書いたものでした。日本語がまだそんなにしゃべらなかったのに、

日本語学校の先生に手伝っていただいてやっと出来たものです。

その時の衝撃は今でも忘れられません。私はただの董翠ではなく、

1人の中国人としてみられることを意識した瞬間です。

中国から出る前に、本当に一つの角度からしか中国を見ていませんでした。

今の沢山の中国人と同じように、自分が立つところから世界を見ています。

(本当の世界は何にも見えなかった。)

先進国のみなさんは、自分の国から一歩出ると、まずその国の代表に

なることは私達より経験しているはずです。

最近日本の国会を見ると、なんとなく一緒に繋げました。

民主しすぎている日本の政府はまず1人の議員ではなく、

一つの党ではなく、日本という国が世界に見られていることは庶民より

知っているはずです。

しかし、個人ではなく、各党ではなく、まず国益と国民のことを優先する

という気配は見えません。

こんな時に、与党の足だけをひっぱることに精一杯の人間は

国民の幸せは出来でしょうか。

大局を配慮するぐらいの器を持っていない人間は、この国のリーターに

なっても無駄でしょう。

今の日本は誰が与党になっても、誰が首相になってももう大事じゃないです。

大事なのは安定的に国政を運営してくれる政府です。

今の政治家はみんなだめだったら、今から育てるしかないでしょう。

鍛えられるチャンスぐらいを与えなければ、それこそ日本をだめにする

行為ではないでしょうか。

政治は結果で問われています。いくら「クリーンニング屋」で綺麗に

洗濯しても、成果をさせない政治はだめの政治です。

2011.11.13 初 恋⑤2011年3月7日

10月は上海の一番言い季節なのに、なんとなく暗かったいめーじでした。

彼は空港に迎えに来てくれました。

私と会ったとたん、一つの封筒を渡してくれました。

「中に5000元が入っています。今回のお誕生日の費用です。」と言いました。

空港から直接にタクシーを捕まえて、案内し始めました。

夜に上海の「和平飯店」に泊らせて、彼は1人で家に帰りました。

「和平飯店」はあの上海の有名な「上海外灘」に近くの南京路にあります。

その時上海の一流ホテルでした。(今はそんな格が落ちていないでしょう。)

1泊800元でした。(封筒の金を使わずに彼が払ってくれました。)

次の日の朝、ホテルに迎えてきてくれて、タクシーを呼んで、上海の郊外の

観光スポット「周庄」に連れて行ってくれました。

その時「周庄」は観光客が少なく静かでまだ開発もされていませんでした。

けれども、とても香ばしい古風で、飽きなく味あわせたのです。

しかし、5、6年後にもう一度行くと、確かに明るくなってきました。

にぎやかで赤いちょうちんがいっぱい引かれて、レストランも沢山

出来ていましたが、

一回目の心にしみ込まれる雰囲気はもうありませんでした。それきりで

「周庄」に3度目行きませんでした。今は大分「現代的」になっているでしょう。

タクシーを2日間で借切して、上海の全てに観光スポットなど案内してくれました。

運転手は1人の女性でしたが、郊外に行くと道が分からなくて、人に聞いても

だまされて逆の方向に走っていたことを覚えていました。

4日目、空港まで送ってくれて、分かれるとき、彼はあるものを私の手に

渡しました。「これは記念品です。」

それは日本のテレフンカードでした。全部で30何枚ぐらいでした。

私に電話するために使ったテレフンカードでした。

大連に戻って、毎日彼を思いながら、学校を通って、そして、一日一回ぐらい、

公衆電によって、過ごしていました。

12月の末ぐらい、彼は電話で「上海に転勤しました。上海で事務所を設立します。

上海についてきてくれませんか。」といきなり言いました。

「学校はどうしますか、一年の学費を払ったばかりなのに・・・」

「学費は戻してもらえなければ、いらないから、とにかく上海に来てください。」

・・・・

ということで私は大連を離れて、再び上海に飛びました。

2回目に飛行機に乗るとき、ほぼ同じ時間で、私の姪の笛ちゃんが生まれました。

 

こうして私達は正式に交際し始めました。

彼は私を迎えるために、上海中にあの時のタクシーの女性運転手を探しました。

(事務所には専用の車が必要です。その時タクシーと運転手をセットで

借り切りにすることは多かったです。)

彼女のタクシーは個人用で、なかなか見つかりませんでした。

最後に急にあの時彼女はある果物屋で果物を買ってもらうとき、

知り合いのように話をかけていたことを思い出して、そこに聞いたら、

女性運転手をやっと見つかりました。

 

こうして私は上海で人生の新しいスタートを始めました。2年以上で彼の

過保護の下で暮らしました。

 

結果として、今通りに私達は結婚せずに、別々の道を歩みました。

私を日本に送り込んだのは彼です。彼と彼の元の奥さんと彼の周りの

友達を含めて暮らしていた日本はどんな状況なので、自分の目で確認して

みたかったのです。

彼達は日本のバブルの真っ最中に日本にやってきました。

その時の中国人は、この国で自分の未来を開くと考えていませんでした。

とにかくどんな手段でも、お金を稼いで、持ち帰りたいです。

彼達は涙と無念を飲み込み、プライトと人格までこの日本に捨てました。

お金さえがあれば、持って帰れば、もう一度中国で日本に捨てたものを

取り戻そうとしていました。

果たして取り戻せたのか、この答えは彼達自分しか分かりません。

これについて詳しく書くかどうか、少し考えさせていただきたいです。

2011.11.13 上海での自転車の経験2011年3月11日

初恋のシリーズはこのまま終わりにするつもりです。

あれほどの大恋愛はどうして分かれたでしょうとみんな気になるでしょう。

世の中が全てきれいごとではありません。

そうなるならそれこそドラマと小説です。

もしもう一度あの時に戻れれば、彼と結婚する?と答えはNOです。

せめてあの時の私は無理でした。

けれども彼はやってくれたことは一つも無駄になっていないし、

一生忘れられません。彼は最高の思い出を作ってくれました。

すばらしい恋の幕を開けてくれました。

私のことを最後の最後まで見守ってくれました。

彼には感謝しています。

私は彼について上海に行きました。

しばらく落ち着いたら、私は上海の華東師範大学の日本語学科に通う

ことにしました。上海の中心からかなり離れているところでした。

入ったとき、一年の後半でした。クラスに入っても何にも分かり

ませんでした。しかもみんな優等生ばかり集まってきた学生ですから、

あの時語学の勉強のコツさえまだ分からない私は苦戦でした。

今の上海は地下鉄も通っているし、バスもかなり快適です。

当時上海に着いたとき、地下鉄第一号が開通したばかりでした。

バスも込んでいるし、交通手段はほとんど自転車でした。

華東師範大学を通うには自転車に頼るしかありませんでした。

片道で多分一時間ぐらいでした。

私は田舎にいるときは自転車をよく使いましたが

大連に入ると、自転車を使ったことはありません。

大連市内にも自転車は少なかったです。

けれども上海には坂道はほとんどなく、自転車に適切なのか

分かりませんが、とにかく至るところは自転車でした。

自転車に乗るより降りるコツは大事です。

赤信号になると、みんな片足しか降りません。お尻は席のままに。

私は練習してもなかなかうまく行きませんでした。

また方向を変える時、片手を伸ばして、方向を示しながら、曲げないと、

危険です。つまり片手で「ハンドル」を操る技も必要です。

止めるときも同じです。いきなり止めてはいけません。

前後を確認しながら、止めるよという合図を示さないと、

後ろの方はそのままぶつかってきます。

最初は知らなくて、何回も事故を起こしました。

一番ひどいとき、私は曲げようとしたら、後ろの男性は

ものすごいスピードでぶつかってきました。

自転車の車輪も曲がってしまいました。

私は大きな怪我はありません、体はどこか痛かったです。

(学校に急いでいるから)

その男性は「いきなり曲げではいけないよ、手で示してくれないと。」

と怒りました。

また後ろからぶつかってきた人も同じことを言われていました。

田舎のとき、ここまで神経を使う必要はなかったのに・・・

自転車に乗るために苦労しました。

だんだん慣れてきて、上海は意外と自転車は

便利で乗りやすいものです。

一つの赤信号になると、後ろに振り向いたら、黒色の一面でした。

それは人間の頭でした。

青信号になると、マラソンのようにみんな一斉に乗り出しました。

その勢いに圧倒されました。

自転車は上手じゃなければ、そのような流れにはうまく載せないでしょう。

雨の日は自転車用のレインコートはあります。(大連にはありませんでした)

頭からかぶって、手足までカバーできます。

また親子のレインコートもあります。

大きい頭と小さい頭が2つ並んでいます。

その風景が私は楽しんでいました。

一年経ってから、私はまだ上海の復旦大学に転校しました。

今度はもっと遠くなりました。

片道だけで2時間ぐらいです。

学校に泊ることにしました。しかし、それでも自転車が必要した。

寮から教室まで、食堂や市場に至るところまで、

みんな自転車を乗っていました。

比べると日本で歩く時間は多いです。

最初は社会人のクラスでしたが、

その後私は本科生のクラスに編入してもらいました。

本科生の皆さんの頭の良さは半端ではありません。

ついていくだけでなかなか大変なことでした。

その時、公開の講義があると、興味があれば無断に入り込んで、

芽も葉も知らない講義をとにかく聴いていました。

上海の冬の教室は外と室内は同じ温度でした。

学生はそのまま座って講義を受けていました。

また色々な有名人の講演も聞けました。

そのとき日本の留学生も多かったです。

時々留学生の寮に行って、交流もしていました。

留学生の寮の近くのレストランに入ると、

壁に落書きが一杯で、

「天も怖くない、地も怖くない、上海人の標準語は

一番怖い」と書いていました。(笑)

日本語を点々して習っていましたが、

そんなに身についていませんでした。

まぜか語学の勉強のコツはずっと分からなかったのです。

今は中国語を教えているから、きっと語学の勉強も早いと思われるでしょう。

私は語学の勉強のコツは本当に分かってきたのは

中国語を教え始めてから、だんだんひらめきました

片道で2時間でもときとき、彼は車で送れないときも

私は自転車に乗っていました。

今振り返ると、その時ジムなんかいりません、

みんな十分にいい運動していました。

今の上海は自転車ではなく、車だらけです。

地球温暖化はこれから本番でしょう。

2011311

2011.11.13 中国人の目から映っている日本人の行動2011年3月12日 22時20分

皆さんは大丈夫ですか。

お見舞い申し上げます。

昨日ホットヨガのために出かけたのに、結局ヨガが始まる直前に地震が発生、

慌てて服を着替えて2時間もかけて歩いて品川に帰ってきました。

節電のために、エアコンを全部消して、湯たんぽを抱えてテレビを見て、

見守るしか何にも出来ません。

中国のほうがどんな反応なのか、インターネットを見ると、こんな記事を

見つかりました。

「日本人の記録的な大地震に対しての冷静さは世界を驚かせました」

というテーマです。

日本の民衆は突発的な地震への対応は冷静的、迅速的だということは、

いかに地震の多発国の国民としての素質を備えているかを物語っているという。

電話で安否確認の対応以外は特にこの場面を描かれていました。

何百人が広場に集まって非難している。タバコを吸う人は1人もない、

毛布やお湯やお菓子を配る人は忙しく走り回っている。

(非難してないから分かりません。)

男性は女性を助けて、ビルの中に入って女性のためにものを取ってくれる

(状況で考えればないはずですね)

3時間経つと人がいなくなり、地面には一つのごみは落ちていませんでした。

また中国の四川省に地震の時に、日本は全力に救助していれたから、特に

死者の死体の前に頭を下げて哀悼してくれた映像が中国人の

心を打ちました。今回は中国も全力を尽くして助けるべきだと書いていました。

少し書く方の想像も取り入れているかもしれませんが、ごく普通の日本人の

行動は、中国人にこんな反応しています。

まだ揺れ始めました。

皆さんは気をつけてね。

2011312日 2220


2011.11.13 「いつも」じゃなくなりました 2011年3月24日

朝10時ごろ、スーパーに入った。

買い占める気持ちはない私は、珍しく水でも買おうかなと思っていました。

いつもお客さんが少ない時間なのに、カードを押して購買意欲満々のお客さんは

目立ちます。水がないから、野菜ジュースを手にして、賞味期限ではなく、

製造日を一生懸命探していました。

その足で喫茶店に入った。コーヒーを一杯満喫。飲み終わってから、

「今の一杯は水道水じゃないですか」とふと頭が回転しました。

13時に五反田の会社のレッスンへ。みんなウールコートでレッスン

に臨んだ。中国なら普通ですが、東京は見慣れていない風景です。

これから季節と関係なくおしゃれが出来る日が来るでしょうか。

レッスンを終え、その足で東銀座のホットヨガへ。

3時のコースですが、いつも空いている時間なのに、今日は込んでいます。

今日だけなのか、これからずっとなのか分かりません。

ヨガが終わって、急いで帰宅。いつも人の一杯有楽町駅まで間に、人が少なかった・・・

教室に入ったら、なんとなくうきうきしています。

 

18時に無料体験レッスンの方が来るのよ。

いつものことではないですか、いいえ今は違います。

 

あの一瞬は世界を一変しました。いつものことはいつもじゃなくなりました。


2011324

2011.11.13 蒼穹の昴 2011年4月1日

今日は41日です。地震から三週間経ちました。

中国の友達に電話をするたびに、早く帰ってきてください、日本の政府は

嘘ついているどか、放射能は体にはどれほどよくないどか・・・・・

私は説明しても聞いてもくれないし・・・

日本の食品はとにかく警戒されています。特に海鮮類だそうです。

日本の食品の「安心安全」の強みはこれからいつ取り戻せるかわかりません。

あの地震はいたずらのように、日本の変化を起こそうとしています。

心から望んでいた変化は決してこのような形ではありません。

本題に戻りましょう。

日曜日のNHKチャネルで放送された「蒼穹の昴」は多分見ていた方は

少なくないと思います。すでに地震が発生した直前に終わりました。

日本の女優の田中裕子さんは西太后を演じています。

中国の時代ドラマはそのまま日本で放送されるのを見たことは有りません。

今度は日本の角度から作り直したものです。

西太后は中国では悪人として扱ってきました。とにかく残酷で手段を選ばず野心家

の女性のイメージしかありませんでした。

言えるのは彼女は中国の歴史上ではいい存在ではなかった。

「蒼穹の昴」は私が全部見ていませんでした、見ていた部分では彼女はこれほど

人間性が溢れているように描かれているのは初めてではないかと思います。

特に彼女の心理の葛藤を繊細に描かれるのも初めてだと思います。

ヒロインも今まで一番可愛い優しい西太后だし、日本人はいくら演じても日本人の

まるみを隠せません。

中国の映画は極端で客観を欠けているのは事実です。

「蒼穹の昴」の主題歌は大好きです。41

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