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スタッフブログ

2011.11.13 黙って、避けて、逃げて(2010年9月27日)

このメールを読んで怒らないと約束してくれる方のみ読んでいただきたいです。

(私の学校にレンガを投げられたくないから 笑)

 このテーマーを見ると、皆さんは何を思いつくでしょうか。

これは今まで私の経験では、日本人の物事を解決する方法とは言え、日本人の人間関係の方式、100%とは言えませんが、せめて傾向があるとは言えるものです。

はっきり言わなくてもお互いに分かるし、面倒くさいから、避けられれば、避けるし、逃げられれば逃げます。とにかく真正面にぶつかることを嫌がっています。個人レベルの人間関係ぐらいなら、私には異論がありません。

しかし日本から一歩出ると、通用しなくなります。この二年ぐらい私は仕事の関係でも、中国と接する機会が増えて、いつも伝わらないことを実感していました。それから私は意識的にはものをはっきり言うように努力しています。

この文化で育った日本の政治家は今回の尖閣諸島の問題で、この方式をまさか国際舞台に持っていってしまいました。全世界中の人の目の前から逃げてしまいました。

船長を釈放することの自体は、正しいかどうか別にして、日中の真ん中に立つ私は両国の喧嘩を望んでいません。けれども釈放としたら、政府として堂々とどんな理由でもかまわなく、中国にも全世界にもその意図を表明しなければなりません。

日中両国は長年喧嘩しながら、付き合ってきました。日本政府はずっとアメリカに眼を向けて、中国のことを気にもしませんでした。元小泉首相はブッシュが好きという理由で、恋人のようにブッシュとくっついていました。一国の首相は国益ではなく、好き嫌いで外交方針を決めるとその時思っていました。その時中国はすでに目覚め始めました。その時の外交方針を変えるべきだったのに。

今でも日本政府は中国のツボを押さえていません。みんな難しいと思っているだけで、誰も努力しようともしません。中国の政府を征服するために、誠意と貫く信念、人格が必要です。真正面だけではなく、個人の感情の投資も必要です。国益のために、多少姿勢が低くしても、我慢しても、中国の中央政府と強いパイプを作らなければなりません。話し合えるような政治家同士が必要です。そんな政治家は日本にはいません。周恩来のような政治家はどちらにも一人がいれば、きっと状況が変わるでしょう。

拉致被害者の家族はブッシュに会いに行ったとき、ブッシュより胡錦涛に会いに行ったほうが役に立つかもしれないと思っていました。胡錦涛に感動してもらったら、本当に何かやってくれるかもしれません。これは日本人が見えない中国人のもう一面です。私ならやってみます。

・・・・

政治のことが一つも分からないくせに、ここで偉そうにしゃべってしまって、申し訳ありません。

本題に戻りましょう。逃げるものは必ず何処かで腰が折れます。一国の政府は何処まで逃げられるででしょう。9月26

2011.11.13 迷いや不安を考えない、踏み出せば答えはそこにある(2010年10月5日)

中国人の友達からこんな相談がありました。

日本人のご主人と結婚したとき、ご主人は自分の会社を経営して、何の不自由のない生活をしていましたが、不景気で倒産してから、何年も経ちました。

ご主人は現在会社で勤めていますが、収入が少ないですが、まだ安定に暮らしています。

最近、ご主人のほうからまた独立で何かやろうと言い出しました。二人はどちらか仕事で家計を支えなければなりません。万が一また失敗したら、子供もいるし、どうしようと悩んでいました。

私の答えは、彼女はパートでもして、当面の生活を工面して、全力ご主人を支えることです。

そして「最悪また会社勤めになるから、心配はいらないわ」と押してあげれば、ご主人もきっと迷わず前に進むはずです。こんなときこそ夫婦の絆を固めるチャンスとなり、女性は男性に海のような力を与えることは出来ます。

彼女の気持ちはよく分かります。誰だって怖いときがあります。

私は会社を辞めるときの気持ちを思い出させました。

あの時本来は会社で勤める以外の選択肢無かったはずでした。

 大抵の外国人は大学を卒業してから、会社で勤めて、永住権や帰化などの道のりになりますが、私もそのままで5年間経てば、確かに念願の永住権を手に入れるのは一番近道でした。

しかし、5年間の青春で永住権と交換する価値があるかどうかとのことでした。しかし私にとって会社をやめると、安定な生活を失うことだけではなく、下手にすると中国に帰ることになってしまうのです。安定を選択するか、本当に生きる意味を求めるか、苦渋でした。

独立の準備など何にもしていないし、先に何も見えていませんでした。頭の中にあるのは、やめるなら早いうちにということでした。

怖くないといったら嘘でした。踏み出したら何とかなるとそんな簡単な思いでやめました。「どうしてやめるの」と同僚に聞かれたときに、私は「もう時間が無いから」と答えました。「いいえ、青春の時間がない」とまた補って説明しました。

 教室の運営は何の一つも知らなかった私は、全部一から勉強しながらやってきたのです。

私の永住権は普通より遅いのはこの原因です。この5年間はたいしたことは出来ませんでしたが、好きなことをやり遂げただけです。せめてこれからの人生にとって大きな意味をしています。

あのときの無謀な行動は無ければ、今日の私もおりません。

アキさんの言葉を借りると、「迷いや不安を考えない、踏み出せば答えはそこにある。」

 もう一つのお知らせですが、私の永住権の許可が下りました。


2010105

2011.11.13 中国の火車の初体験(2010年10月9日)

中国の火車と言えば、日本の電車のようなものです。まだ新幹線などは無い時代は、遠距離移動には火車はメインです。他には飛行機しかありませんでした。今新幹線はあちこち作られている最中ですが、正式に運伝開始のところもあります。私の地元にも新幹線が通るそうです。

初めて大連を離れて上海に行くときは、飛行機でした。それから全部飛行機で、火車に一度も乗ったことはありません。すぐ下の妹が北京に引越してから、両親は行くたびに火車を利用して、一晩寝れば、北京に着くそうです。話を聞くとかなり快適そうです。

去年の11月ごろ、私は日本から大連へ、それから北京、上海へという移動の路線を計画しました。

一晩寝れば北京に着くので、時間的には節約できるし、安いため、火車で行こうと決めました。

一人でチケットを購入しました。260元ぐらいと覚えています。両親はいつも450元ぐらいじゃないかと不思議に思っていました。

出発の日に、夜9時の火車ですが、一人で部屋でうとうと寝てしまいました。いきなり眼が覚めると、8時半でした。間に合うか間に合わないか分かりません。とにかく行ってみるしかなかったです。

タクシーに乗り、10分前に着きました。この日に大連は急に冷え込んで、雪が降っていました。荷物は大きくて重かったです。駅内の地面はでこぼこ、エスかレターは一つもありません。スーツケースを引いても進まないから、出来るだけ上に持ち上げるようにしていました。どうやってホームまで行ったか覚えていませんでした。階段を下りて、火車はすでに起動して、駅員さんは各車両の入り口できちんと立って、発車を待っている状態でした。

でこぼこのホームにはスーツケースはなかなか動きませんが、みんな私を見るだけで、誰も手を伸ばしてくれませんでした。日本に慣れたら、ついつい期待してしまうのです。

やっと自分の車両を見つけて、乗り込んだら、廊下に男女とも立ったり、座ったり人はいっぱいでした。私は思わず「男女を分けていないの」と口に出しました。「ハハハ・・・」と爆笑されました。「一晩寝るから、男女を分けるでしょう」と思い込みました。自分の席の番号を見つけたら、なんと一つの区切りの中には6人で3段ベッドでした。

「どうして6人?4人じゃないですか?」

「それは柔臥でしょう。」

「チケットを買うとき、何にも言ってくれませんでしたよ。」

「それは自分から言わなければ、硬臥になるでしょう。」

日本でサービスされるのに慣れたら、日本を出ると生活能力は落ちてしまうのです。

3ベッドの一番上でした。誰かが私の大きなスーツケースを一番下に入れてくれた。

服を着たままに、上に上がったら、息ができないような感じでした。座るだけで頭が上がらないし、狭くて、体を動けませんでした。その時後悔して仕方が無かったのです。

車内にはみんな若者です。だんだん静かになって、眠りに入ったでしょう。息を呑んで横になるしかありませんでした。腰が痛くなってきました。冷たいから、大連で臨時に買ったウールジャケットを腰に当てて、そのまま眠りました。

朝8時に北京に着くそうです。眼が覚めると、もう7時でした。私は起きて、身の回りの荷物を整理して、暖かいミルクを買って、飲みながら、窓を越して、外の景色を眺めていました。沿線はほとんど雪が降っていました。白っぽい野原しか何も見えませんでした。みんなまだ寝ているのに、車両管理の姐さんは入ってきて、「サーサー」と窓のカーテンを開けてしまいました。まぶしい日差しは寝ている人たちの顔に照らしていました。

もう8時近いのに、なぜ起きていない人は多いでしょう。なるほど、私の時計は日本の時間でした。1時間早かったのです。

北京に着きました。重いスーツケースを出して、悩んでいるときに、一人の若者は「持ってあげようか」と近づいてくれました。まるで救世主のようで、迷いも無く「お願いします。」と答えました。

この行動は実に大胆でした。悪い人なら、荷物を持っていかれてもおかしくないはずです。

北京の駅内の地面でもでこぼこです。とにかくスーツケースを持っちゃいけないところです。

駅から出ると、ちょうど朝ラッシュの時間です。目の前のタクシー駅には人が長い列を並んでいました。「地下鉄なら、一番早い」と彼は言い出しました。「地下鉄?」

ホテルの住所と名前しか知らない私は一人で地下鉄に乗るのは到底無理なことでした。「目的地まで送ってくれませんか」と彼に頼みました。

私は荷物を見て、お金を彼に渡して、チケットを買ってもらいました。チケットはいくらか分かりませんが、彼はお金をそのままで返してくれました。

とにかく人はいっぱいでした。地下鉄なのに、荷物のチェックもしました。私はとにかくわけが分からなくて、必死に彼についていただけでした。

ホテルの近い出口から出ると、もう少しと言われていても、ずっと歩いていたような感じでした。

やっとある軍隊のホテルに着きました。(普通に泊れないとこです。)

格格おばちゃんがそこで待ってくれました。「彼が送ってくれました。」と言ったら「危なかった!」と格格は声を上げました。また笑顔でその若者に「ありがとうございました。」

 格格は人の名前ではありません。中国の皇室のお嬢さんの呼び方です。この格格様について、是非紹介させていただきます。次回「私は見ていた中国の皇族」をお楽しみしてください。

 中国の火車はもう二度と乗りません。


2010109

2011.11.13 大連 青島 煙台 → 東京 ニューヨーク 上海 不思議な縁(2010年10月15日)

たったの一度の電話のきっかけで、ニューヨークの彼女と知り合いました。二人は意気投合でいい友達になりました。彼女の紹介で、上海の彼女とも友達になりました。彼女は青島出身で、上海の彼女は煙台の出身です。大連 青島 煙台は近隣の町で、三人とも年齢は近い、性格も似ています。

彼女は2年前にやっとアメリカのグリンカードを手に入れ、8年ぶりに故郷に帰ってきました。子供や旦那さんもアメリカに連れて行きました。青島の高級ホテルンの仕事をやめて、アメリカへ。不法滞在になって、学校に行かずに、0からスタートして、それからエステを経営し始めて、成功を収めています。

上海の彼女は上海で会社を経営して、上海の上流社会で生きています。商売をやっているお父さんはなくなれて、弟に裏切られたため一人でお母さんを連れて上海へ。成功を収めてから離婚して、脳の病気を持つ子供を抱えています。国内の中国人と比べると考え方はまだ開けているほうです。 

二人は私より出発点が高かったですが、二人とも結婚歴があり、子供を持ち、私より現実に生きています。ですから二人ともいつも私を心配しています。ニューヨークの彼女は日本をやめて、アメリカに来いと、上海の彼女は上海に戻って来いと言っています。


私はなかなかに日本をやめられないことはどれだけで「現実的」になっているか二人とも分かっていません。10年前の私なら世界の何処にも躊躇うことは無く、飛んでいくでしょう。

三人ともこの世代の中国人の代表的な生き方です。三人とも自分の力で、中国の激動な変化とともに、劇的な人生を送ってきました。10何年前に世界に飛ばされて、また何らかの不思議の縁で、世界から繋げられています。

ニューヨークの彼女とまだ一度も会っていません。「長距離恋愛」は2年もありますが、今年に実現できるかどうか分かりません。

私達は沢山の言葉は必要がないにもかかわらず、いつも長い電話しています。

20101015

2011.11.13 私は見ていた中国の皇族(2010年10月16日)

皆さん、格格様の話をお待たせしました

この格格様を書こうと思うとき、思わず慎重になりました。

この一族は日本とのかかわりが深く、私のペンでこの格格様は日本に初デビューになるかもしれません。責任の重さを感じます。

 夜、長い電話で格格伯母さんを「インタビュー」しました。

私は受けた印象と彼女から聞き出す情報をあわせて書かせていただきます。

格格様と知り合いになったきっかけは、去年北京である「詐欺師集団」が行った全世界の中国人企業家の大会でした。このような活動は北京で盛んでおり、釣魚台で宿泊や人民大会堂で集会などの条件で、世界の各国の華僑を呼び戻すということで、実際に何にも実現できていませんでした。今でも色々な集団が色々な名目でまだやっています。

34日間の会議の最後の日に、格格様と出会いました。彼女はずっとこの集団の中のアメリカから来た台湾人達の面倒を見ていました。最初「格格」と聞いたとき、「何?」と理解できませんでした。よく話を聞くと、愛新覚羅の遺族だとやっと分かりました。

実はこの一族には二人しか残っていません。格格様とお父様です。お父様は95歳で、格格様は58歳で、この二人は亡くなられたら、この一族はなくなるということです。

お父様は末期皇帝の溥義の秘書と日本語通訳をやっていらしたそうです。

(末期皇帝は西太皇の妹の息子です)

本来は五人兄弟でみんな日中戦争中に餓死されたそうです。格格様は中国が解放してから生まれたのです。お母様は早いうちになくなれたそうです。 お父様の兄は日本に連れられて、日本で骨を埋めたそうです。日本の「美日新聞」の創始人だそうです。(この新聞がご存な方はいらっしゃいますか?)

日本の皆さんはきっと日本の皇室のイメージと連想していらっしゃるでしょう。

毛沢東時代から中国の特別な貴族はなくされました。格格様は特別な出身以外はほとんど特別なことがありません。見た目では普通の庶民と何も変わりません。 

国から住む家をもらっています。北京は天安門を中心に、一回り、二回り(1還、2還と呼びます)のように外側に延長していきます。外側ほど安いです。格格様は2還に住んでいらっしゃいます。私は前回に話していたあの軍隊のホテルでは一つ狭い接客室をもらっています。

車も一台と運転手一名と配置されています。またお父さんと二人で北京ではぎりぎりできるぐらいの生活費をもらっています。これらはこの一族の特別な待遇です。

知り合いになってから、よく電話で格格様と話していました。彼女は日本の補正下着が大好きで、ビジネスをやりたいと言っていました。私はメーカを探してサンプルを作って、前回の「火車の初体験」で書いたように北京に持っていきました。

格格様は予約してくれた軍隊のホテルに着き、部屋に入ってから、私は手荷物を整理しているところで、格格様は「このカバンがいい、くれる?」と言いました。

私はカバンの中の荷物を出して、格格様のために買ってきた薬も一緒に「はい、あげます」と渡しました。

お昼の食事が終わってから、格格様は用事でいなくなりました。私は友達と会って、夜ホテルに戻りました。格格様と何回も電話しても、つながらなかったです。10時ぐらいになると格格様は部屋に入ってきました。

ご自分の宿泊の必要なものを全部持ってきました。「えっ、ここに泊るの?」「そうよ。」

「一つのベッドでいいですか。」「大丈夫!」

そうですか。まあ日本人ならびっくりするかもしれませんが、私は平気ですけど、ちょっと意外でした。

深夜まで二人で話しました。その時この一族について何にも聞いていませんでした。

子供もいない、離婚したようです。話を聴くと、老後への不安もあり、私が北京に帰ってきてほしいような話でした。今でも電話すると北京に帰ってきてほしいと口説いています。

次の日、私は履いていた靴下やズボンが何でも気に入り、全部ほしいみたいで、「ちょっとこの方はどうしたんでしょう」と思い始めました。

また補正下着の話ですが、本来私は手伝うだけにするつもりでしたが、格格様は全然信用してくれなくて、これ以上値段を値切られてしまって、私は呆れていました。
(いいえ、私は日本的な考え方で相手に伝わらなかったようです。)ちょうど北京は雪が降り、部屋には暖房も無く、(中国北のほうでは決まっている時間で暖房を送るので、その前に急に冷え込んだりするとき、我慢するしかないです)、布団さえも一枚も多めに出してもらえないし、私はそのまま風邪も引いてしまい、臨時的にスケジュールを変更して、上海に飛びました。

それからしばらく格格様と連絡を取りませんでした。北京に関して情報が必要なときだけに電話したりしました。

 格格様は確かに貧乏に見えました。着ている者や持っているものなどはいいものはありません。ウールジャケットさえも一枚しか持っていないそうです。一緒に泊るときに化粧品さえも持っていませんでした。どうしてここまで貧乏なのか、分かりません。

今回はこの文章を書くために、じっくり格格様の身の上話を聞きだしました。それで急に格格様のことは少し分かるような気がします。

格格様はいつも人からものをもらうことに慣れているから、国からもらうことと、また色々な人たちから貰おうとしています。特に海外から帰ってきた人たちは格格様の狙いです。
(すすんであげる人がいるはず)北京の人脈を利用して、外の人間達に便宜を与えて、その中で少し生活の足し物を得たりしています。国内ではお金と権力は無ければ、身分はどうであれ、相手にされないでしょう。

しかも格格様は中国の清朝の280年の歴史の最後の宝だとご自分もそう思っていらっしゃるようです。私には特別なのかあるいは誰にもこう甘えて、貰うのは当たり前と思っているか分かりません。

昨夜の電話で思わず格格様を同情し始めました。

環境の原因なのか、教育の原因なのか、格格様は皇室の品格を保っていません。子供さえも生みたくなかった理由は何なのか、本当は心に深い傷を負い、この一族を本気で絶滅させたいなのか、深く聞けませんでした。

長い年月、格格様はこの一族を背負って、色々な経験して、乗り越えてきたでしょう。特別に生まれてきたではないのに、いいことも悪いことも特別に扱いされてきたでしょう。あの「文化大革命」をどうやって乗り越えてきたか、この一族の平穏はいつから戻ってきたか、本当は知りたいです。

私は「胡錦涛と温家宝に手紙を出したいです、お二人の手に届く方法はありますか」と聞いたら、「方法はありません。」と答えられました。

格格様は日本に来たがっています。「日本と文化を交流したい」と言っていました。

どんな文化交流できるか、格格様の宮廷文化には何が残っているか、どのようなものを見せられるか、私は分かりません。

今年私の大事な発音教材の仕事を片付けたら、来年はちょっと研究してみようと思っています。なにしろ清朝の最後の宝の要望には私の力でできれば少しでも答えてあげようと思っております。皆さんいいアイデアがあれば教えてください。

20101016

2011.11.13 アイツを倒してこい(2010年11月9日)

去年も同じように母親が知りながら、いじめられて自殺した小学生の事件を皆さんまだ覚えていらっしゃるでしょう。今回はまた同じですね、親が知っていても防ぐことは出来ませんでした。


一体責任はどちらでしょう。社会に?学校に?いいえ、その前に親の責任を問わなければならないと思います。学校と相談しても効果は無かったのに、まだ期待していた、頼っていた親の判断力のなさと鈍感力に対して言葉はありません。 

中国の友人の話ですが、企業家の父親がいつもいじめられて泣いて帰宅した一人子の息子をしばらく黙ってみていました。ある日また泣いて帰ってきた息子に棒を渡して、「今日はアイツを倒さなければ、この家に帰ってこないで!怪我させたら、お父さんがお金を出して、治療してあげるから、アイツを倒してこい」と子供を外に追い出しました。

その日に、その泣き虫の息子は本当に棒を振るって、相手を殴りました。それからいじめを止めました。

子供同士のことですから、子供を自ら立ち向かわせて解決する能力を養わなければなりません。決して親が顔を出していけません。昔から中国人はこういう考えを持っています。(今はどうなっているか分かりません。)

私は何年ぶりに上海の友達に会ったとき、彼女は最初に口に出した言葉は「中国では自分のことを自分で守る。」と外にいる人間の私への警告でした。

確かに日本は平和しすぎて、ぼけてしまいそうな感じですが、社会に責任を押し付けても、後祭りでいくら騒いでいても落とした命は戻ってこないです・・・・・・

2010119

2011.11.13 公家的①(2010年12月13日)

中国語を少し習っているからなら、「公家的」の意味は分かるでしょう。

反対は「私人的」です。

大きく言えば、国や役所や国営企業などは「公家的」になり

ます。反対個人企業などは「私人的」になります。

小さく言えば個人企業は「公家的」になり、そこで働いてい

る人たちは「私人的」とは言えます。

日本の場合は、お客さんに対して、自分はイコール会社です。

しかし中国人はいつも会社は会社、自分は自分だという意識が

強いです。よく聴いたせりふは何かがあったとき

「別にこのお金は私のポケットに入っているわけではないし・・・」

今回大連でDVDの製作に当たって、久しぶりにこの話はまた耳に

入ってきました。担当者の女性の方Gさんは、はじめに打ち合わ

せたあと、一緒に食事をしたとき、(私は小馳走しました。) 

「見積もりは安心して、私は公家的ですから・・・・」

このスタジオは個人のものです。彼女にとっては「公家的」ですよね。

食事前に彼女は日本のビディオカメラがほしいと言っていました。

その時どういう意味かまだぼけていた私はその意味を正しく理解

できませんでした。

このような流れなら見積もりを見なければ、どうすればいいか

分かりません。だてビディオカメラはいくらか私も分かりません。

どのぐらい安くしてくれれば、私はビディオカメラをプレゼント

できるか分かりません。

二日後、彼女から電話がありました。「見積もりできましたが、

撮影は来週の水曜日に入らないと、準備は出来ません・・・」

それで最後に値段を言いました。 

最初に彼女が予測したくれた値段よりはるかに上回っています。

決まっている値段や基準は無いので、全て彼女の口で決めてし

まうのです。(一度書ききれないので、次回に)

2011.11.13 公家的②(2010年12月14日)

値段を聞いたら、「それは高いですね。」

「じゃいくらでいいか、私は出来る範囲なら、やってあげます。」

「000でいかがですか」私はただ3千元しか値引きしていま

せんでした。

「それは出来ません。」

「だったら、値引きする意味はありません。順調にうまくやって

くれれば結構ですから、お願いします。」

値段から見れば、彼女はプレゼントを貰うつもりはなくなると私は

思っていました。もしかしたら、この中から彼女は自分のポケット

に入れる隙間があったり、あるいは会社からバックしてくれたりす

るかもと思っていました。

それでこの中国語発音法は本にしても、DVDにしても、一見に簡単

なものですが、実際にやるとかなり面倒なものです。少し余裕を与

えて、思うとおりに作りたいです。

「8割を先に払っていただきます。」と言われても、私は半額しか

持っていきませんでした。

契約書と明細書は何にもないから、そんな条件を聞くわけありません。

お金はスタジオのみんな前で払いました。これなら値段は明らかに

なっているはず・・・

じゃこれほど高く見積もりされる理由はバックのほうかと・・・・

このスタジオは以前に利用したこともあります。録音なら、決まって

いる値段だけで、何の問題はありませんが、このほどのDVDの作製は、

この会社にとっては大きな仕事に違いがありません。

大連ではこれほど環境のいいスタジオは他にあるかどうか分かり

ませんが、場所として、スタジオの設備などはかなり使いやすく、

便利なところとは言えます。

最初の交渉はすでに失敗しました。一つは私は一人で来るではな

かったです。もう一つはいくつか調べて、値段を比べてみてから

ということでした。

そこまで手を回せませんでした。

このDVDの計画、脚本と役者は何にもかも私が一人ですから、

精一杯、一杯でした、私は精神的肉体的はいい状態ではなければ、

撮影はうまくいきません。これ以上の心労は耐えられません。

さらに、中国で作ると神経を一本一本尖さないと、問題が起きます。

気を抜けるところはありません。

とにかく、リラックスして、何ヶ月の体の浮腫みを抜けないと・・・

2011.11.13 公家的③(2010年12月15日)

妹達はよく通っている日本の健康センターのようなところで、

体を休みながら、脚本を作り直していました。打ち合わせてから、

「投影」でせりふや本の内容を見ながら撮影できることを知り、

DVDの本当の形が見えてきたので、脚本も作り直さなければなり

ませんでした。

第一回目の撮影のとき、彼女が作ってくれた背景の布に顔料を塗

布すると、しわしわになるもので、画像をみたら「これは絶対無理

です。作り直してください。」と要求しました。前日に試したとき

に背景は小さいため、作り直したのに・・・普通はこのぐらいだった

ら彼らから見れば、問題ではなかったはずです。「みんなこういう

ふうに使っていますけどかど・・」

一応撮影はしました。練習として。

撮影の前日、私は電話でGさんと話しました。念のため。

「今回の見積もりはかなり予測以上高くなっていますが、Gさんは

どうしたいですか、給料はそんな高くないし、私のほうからお小

遣いを上げますから、値段を下げてくれませんか。」

「私はお金のためにこの仕事をやっているではないから、コストを

考えなければなりません。どうしても高く思っていれば、最後2000

を安くしますよ。」

「じゃ、この件はとりあえず置いときましょう。」

本人は要らないと言っていたから、彼女のことをこれ以上考えなく

てもいいということです。撮影はどうなるか分からないので、少し

余地を残りたかったのです。ちゃんと気楽にさせて貰っていいものを

作ってくれれば、何千元の問題ではありません。

次の日、正式に撮影に入りました。1回撮影すると、本の半分

くらいの内容になります。あわせて5、6時間かかりました。

一度収録が終わったら、体の全てのエネルギーと脳みまで全部

カメラの吸い取られたように、抜け殻になります。家に帰ってから、

何時間経っても、体の感覚が戻りませんでした。

その疲れ方は初めて経験しました。何ヶ月の咳で、体の底の力を

まだ快復していないか、そもそも、この仕事はこれほど疲れること

なのか、分かりません。

一日休んで、また一日収録することにしました。Gさんはこれ1回

で全部終了しようと思っていました。しかし私はどれほどきついか、

よく分かるので、無理だと分かっています。

収録した画像を見て、どうも納得できませんでした。顔には生き

生きした表情が見えなかったから。前回の部分はもう一度取り直し

てみたいと考えはじめました。

そうすると、今日は命をかけても、最後まで終わらなければなら

ないと思っていました。彼女の態度はすでに私にプレシャーをか

けています。

収録はカメラの担当と投影の担当と音声の担当の三人スタッフが

付き添ってくれます。Gさんは投影の担当です。

少し長く休んでも貰って、最後の部分を終えようとしていました。

その時、彼女はチャイナドレスショーの音楽はどうすればいいか

など聴きました。

やはりGさんの気持ちはどうしても今日中に終わりたいです。口は

董さんの調子を見て撮影はすすむと言いながらも・・・

私はチャイナドレスショーが今日は無理だと答えました。

食事は終わって、スタジオに戻り、撮影は再開し始めました。

このとき、彼女の態度は変わり始めました。

携帯のメールをしながら、投影します。読み終わってから、

次の無いように移してくれない・・・・

立つだけで足がしびれて、体力も限界なのに、彼女の様子で集中も

出来なくなりました。

これならもう収録は出来ません。

2011.11.13 公家的④(2010年12月16日)

一瞬爆発しそうでした。けれどももう少し終わりますから・・・

と私は我慢して、黙りました。彼女は普通に戻ってから、

また続きました。

なんとか終わりました。そして前半をもう一度撮影したいと

彼女と相談しました。彼女は「私はもう時間はないし、李さんも

(カメラの方)も忙しくなりますなどなど・・・・」

私は「いつ撮影できるか、連絡を待っています。またメイクの方

とも連絡しといてください。」と着替えて、スタジオを後にしました。

タクシーの中で彼女からの電話がありました。「明日は撮影できます、

いつも通り12時に、私はこられないけど、他の人に来てもらいます。」

「誰でも構いませんが、まじめにやってくれれば・・」

次の朝、私は喉がかすれて、声も出にくくなりした。本来は1回撮影

が終わって、次の日にすぐ出来るものではありません。

彼女に電話して「二日間後にしてくれませんか。来週の月曜日

はいかがですか。」

 彼女もOKしてくれました。

日曜日に彼女から電話がありました「李さんのおじいさんはなく

なられました。撮影は水曜に移るしかないです。」

Gさん私は5日のチケットです。水曜になるともう1日です。

編集のほうが間に合いますか」

「大丈夫杖です、安心して、間に合います。」

間に合わないのは分かっていても、しょうがないと思っていました。

その後、分かったのが、李さんのお爺さんはなくなられましたのは

半年前のことです。今回は周期の行事だけでした。

そして李さんは以前彼女の部下でした。一年前に彼女と合わ

ないため、やめて自分でやることにしました。今回は協力関係

でやっているのに、李さんに彼女の部下だと言わせています。

メイクさんのこともそうでした。三回目の撮影は彼女は朝10時に

しましたが、9時に電話がきて、「メイクさんは午前中に大事な

化粧があるので、来られないです。ご飯食べずに12時からなら

間に合います。」(そういう意味なのか、私は大事な客さんではない?)

結局、私はメイクさんに聞いたら、午前学校にいただけです。

Gさんは午前彼の先生と連絡したらしいです。学校があるから、

昼の時間でやるしかなかったです。

このような小さな必要の無い嘘は常にあります。なぜか理解できません。

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