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スタッフブログ

2011.11.13 先生、お久しぶりです。浜村です。

先生、お久しぶりです。浜村です。
いつも楽しく配信読んでいます。
本、DVD、CD、ついに出来上がったんですね。
色々と紆余曲折を経てようやく出来上がった本ですから、先生の愛着もひとしおだと思います。私もなんだか嬉しいです。
北京に来てから、必ず発音を誉められるんですよ。発音は誰に習ったの?どこの出身の人?と必ず聞かれます。「大連出身で、発音に人生をかけている位(おおげさですね笑)中国語の発音を研究している女性から習いました」と答えてます。
この前はある語学学校の校長先生にも同じことを聞かれたので、いつものように答えたら、「中国語学習において、一番初めに出会う先生はとっても重要です、その先生に感謝しなさい」と言われました
日本にいるときも感じてましたけど、北京に来てからチャイナリニアを選んで本当によかったと再実感してます。

以下の内容はチャイナリニアの発表会で閉会式の挨拶をさせていた内容です。

闭幕词

大家好,

               Róngxìng

我叫 滨村,  很荣幸在这里认识大家。

Yīniányí    dù  fābiǎohuì gěi  chuàngzào zhǎnshìpíngshí  jīhuì

一年一度的发表会, 给我们创造了一个展示平时学习成果的机会,

        Bǐcǐjiāoliú              dàilái          jìxù     dònglì

也是我们彼此学习交流的机会。也给我们带来了明天继续学习的动力。

        Chūchǎngzhě fāhuī  shuǐpíng    zàijiēzàilì   nǔlì

今天,每个出场者都发挥了很好的水平, 希望大家再接再厉,继续努力下去,

     Jiānchíbúduàn  jiùhòu  chéngguǒ

只要坚持不断,        就会有好的成果

我学习中文八个月, 今年三月 去北京留学五个月。

                                 Cóngdùzilǐfāchū    gèngxiàng      

北京的老师说,中文发音很重要,特别是从肚子里发出的声音,更像中文发音,

          Zhēngyīn                   Búlùn        

中国人说话声音很大,我在北京生活五个月, 不论在地铁里,还是在食堂里,

大家都在大声说话。

    Yǒuyìshi         bùkěxīyì                       xīnqínghěnshuǎngkuài

我也有意识地大声说话, 不可思议的是,从肚子里发出的声音,心情很爽快,

  Ciǎfāxiàn  zhīsuǒyǐyǒujīngshen    yǔ        fāngshìhé      xíguàn

我才发现,中国人之所以有精神,        与中文发音的方式和大声说话的习惯也有关系。

希望明年的发表会,我们能再一次的相见。

2011年10月15日

 

2011.11.13 値段ではなく、効果です!レッスンの3回目に「鼻音」を、6回目「巻舌音」を!!

 

 

無料体験で、そのまま入会し、教材も持ち帰りました。
yuyi発音法のHPに載せたDVDの無料体験版を見ながら、
予習し始めました。レッスンの開始まで一週間の間に、鏡を見ながら、
練習しました。
そして一回目のレッスで、「発音三」までスムーズに行きました。
普通は一回で「発音一」ぐらいしか進まないのに・・・・
つまり私は一回で普通の三回分の内容を習得しました。
かなり安いと思いませんか。
三回目のレッスンの時、日本人にとって難しい鼻音を綺麗に
区別できるようになっています。そして5回目のレッスンは「発音八」
まで進みました。このとき鼻の両側の筋肉をすごく鍛えられて、
完全に「中国語口」を作ってしまうような感じです。後2回で中国語の発音を修了します。
これは三回目のレッスンの画像です
http://www.youtube.com/watch?v=XCsmm9xu-oQ&feature=feedu

6日目のレッスンのとき、最後の「発音九」まで進みまました。日本人には難しい「巻舌音」を挑戦しました。

http://www.youtube.com/watch?v=Vn9xQ83e3w4

 

2011.11.13 日本で就職している中国の新大卒生

皆さん、こんにちは。
今年暖かいですね、もう少し一年が終わります。
日本人にとって、日本に住んでいる私のような外国人にとっても、
今年は歴史的な一年になるでしょう。
関西大震災のとき、私はまだ中国にいました。
その時に日本に来るべきかどうか
迷っていました。まさか10年経ってから、
この身で世紀的な大地震を経験するようになりました。

今は世界が大きく変わろうとしています。

本題に戻りましょう。
新しい生徒が入会しました。23歳の若さです。
上海にある日本企業で内定が決まりましたが、しかし、
日本で二年間の仕事の経歴がなければ、中国で就職してはいけないと
中国政府の決まりだと知らせられたため、やむを得ず慌てて
日本で就職したそうです。

faecbookのために、業者の営業の方が来校しました。
中国人女性です。
「日本に何年?」
「1年」
「1年で会社で就職?」と耳を訴えました。
私達は日本語学校2年、大学4年と合わせて6年間がなければ、
就職なんて考えられませんでした。
「大学を卒業して、北京で就職活動しているとき、今の会社が採用してくれて、
そのまま日本に働きにきました。」
「こんなこともあるんだ・・・」

ちょうどその何日の後に、テレビのニュースで、日本企業が中国で
新大卒生を募集する様子を見ました。

日本の企業がかなり人気のようです。
給料の面で、普通なら中国で就職すると、平均で7万円ぐらいに対して、
(この数字は多いと思います。)
日本の本社なら、19万円ぐらいです。
中国での欧米企業などのよほどいい会社あるいは実力を持っていなければ、
19万円の給料を越えることはありえないでしょう。

まだ20代の新卒生にとって魅力的でしょう。
日本の企業にとって、単なる国際競争のためでしょうか。
中国で就職できない日本の新卒業生達はどうなるでしょう。

これらの中国新大卒生たちは、果たして日本の企業に新しい風を吹き込むことが
出来るでしょう。
まだ「中国色」に深く染められていない彼達は日本の企業で0から、
確かに育てやすいですが、
そのうち日本人と同じように「日本一色」になっていくのではないでしょうか。
それは日本企業の次第でしょう。
yuyi
2011年11月12日

2011.11.13 中国での三日間の集中レポート①2010年9月

今回の里帰りは12日間のうち、3日間の経験を書き下ろしました。中国に興味を持っている方々のために特別に発信させていただきます。長いので3回で分けて発信します。暇つぶしとして、読んでいただきたいです。

私は日本に留学してから、中国では戸籍を削除されました。完全に帰国してから、パスポートを返して、戸籍を戻すことになります。こういう政策でした。たいていの人は国籍を変えるか、永住権を取るかにしています。私は国籍を変えるつもりも無く、永住権を持っていない人間なら、面倒なことが多いです。

私の地元では、それまで海外に留学できたのは私一人だけでした、前例はないから、戸籍は無くても普通ということは誰も知らないようです。政策だということは何年前に始めて知りました。戸籍証明書や独身証明書などが必要になるときに、家族はいつも担当の公安部の人にタバコを買ってあげたり、ご馳走してあげたりして、何とか特別に出してもらっていました。


この二三年ぐらい、パスポートだけで、いろいろな機能がなくされてきました。例えば、パスポートで、口座を開けない、人民元に両替できない等等。


私の我慢は限界です。今年の7月の大連の政府に3通の手紙を出しました。その中の一通は大連市市長に。これまでに苦しめられた経験と何とかしてほしいという内容でした。

2週間後、大連から電話が入ってきました。「いつでも手続きが出来るので、大連に帰ってきたとき、こちらに来てください」「やった!」

819日に私は何の変化が起きていないうちに急いで大連に帰りました。23日に資料を用意して、大連の郊外にある「出入管理処」に向いました。大連にはこのような機関があるなんてはじめて知りました。日本の外国人管理局のようなものです。


経済の発展につれて、外国人の出入りと中国人の出入りが増えたからです。しかし大連は一番かかわっているのは日本です。そこで日本人と日本人の配偶者はよく見かけました。

日本のタバコ2カートンを担当のハンサムさんに渡しました。(彼の名前は帥であり、中国語ではハンサムの意味です)「たいしたものではありませんが、タバコを吸う同僚達に分けてください。」こう言うと、ハンサムさんが同僚の前で受け取りやすいからです。これは空港で買ったもので、ワンカートンが2000円で安いです。少し中国に持っていけば、色々なところで役に立ってくれます。

資料は足りなくて、また戸籍証明書は必要となります。地元にいる義理の兄に頼んで、「どうしても今日中に出してほしいです」。しかし、今回はタバコだけですまずに、本人じゃないと出せないということになりました。ハンサムさんも電話を取り、

「今回の件は、夏市長は特別の許可したもので、協力してもらえませんか?」と交渉した結果「委託書」をファクスにしたことになりました。

そのとき、ハンサムさんの上司が入ってきました。「董翠さんが誰ですか?」私はあわてて立ちました。「あなたは大連の有名人になったじゃないですか、董翠さんが来たと聞いたら、どんな人か会ってみたいな。私たちの政策は完璧ではありませんが、人情がありますよ、直接に来ればいいのに・・・・」

「こうしなければ、あなた達は私のような農民の娘の相手にしてくれるわけはないでしょう」と私は心でつぶやいていました。どういう状況だったか知りませんが、私の手紙の振動力が大きかったようです。

午後2時半大連の「長距離のバスの駅」で、実家からのバスの運転手さんから「戸籍証明書」をもらって、3時半に管理局に滑り込みました。(閉門時間は4時半)

今度写真を撮ります(30)。日本の場合は、自動機械一台ですが、そこにはせめて4,5人ぐらい働いています。変なのは、髪型が前で後ろの髪の毛を全部見えないようにして、服も用意してくれたものしか着れません。更衣室に襟が付いているシャツ2,3枚と背広2枚しかありませんでした。

みんな順番で着ます。汚くて、息を呑んで着ました。どうしてこんなのが必要か理解できません。カメラマンの指示通りに、私たちの姿勢を正す専任役に散々頭を動かされて、指名手配のような写真を取られました。それを持って急いでハンサムさんに部屋に入りました。

4時でした。「資料が全部揃って、あとは上司の許可を待つだけです」

「待つ?いつまで待ちますか。今日は出来ませんか、4時半まででしょう。」

「このようなことはね今日か、明日か誰も決めていません。上司はもう上着をきているのに、私はその上着を脱いでくださいと言えません。出来るだけ上司を催促することだけを言えます。何ヶ月も何年も待っている人もいますよ。」

「じゃ、ハンサムさんに任せます。」ハンサムさんはきっと悪くない公務員だと私は思っています。では次回を楽しんでください。

2011.11.13 中国での三日間の集中レポート②2010年9月

公務員の仕事時間は朝8時から午後4時までです。お昼を含めて、ちょうど8時間です。ハンサムさんは言っていた4時半は多分30分が彼の義務残業かもしれません。

大事なポジションについている幹部らが8時間もオフィスにじっと座って仕事している人はどれほどいるか分かりません。昼から酒を飲み始めたり、午後からマージャンをはじめたりすることは普通でしょう。

24日のお昼にハンサムさんに電話しました、「董翠ですが、用事は無いですけど、電話したかっただけです。」ハンサムさんは笑いました。「分かった、上司に聞いてみますね。」ハンサムさんの昼休みは11時半から13時までです。忙しいときはできないでしょう。

午後2時に、ハンサムさんから電話が来ました。「許可ができました、取りに来てください。」「ハンサムさん、本当にハンサムだよ」と電話を切って、実家に帰る準備しておいて、管理局に向いました。

ハンサムさんの部屋に入ったら、ハンサムさんは居なくて、他の同僚はにこにこして「戸籍はこんな早く許可するのは初めてですよ。」とみんなもどこかで不思議に思っているかもしれません。ハンサムさんは部屋に入ってきて、許可書(紙一枚)を渡してくれました。

「どういうふうにお礼を言えばいいか分かりませんが、また機会があればお会いしましょう。」とその瞬間、心から本当に感謝の気持ちを沸いてきました。

その足で地元への5時のバスに乗りもみました。今は高速道路などの道路の整備はかなり進んだおかげで、地元から大連までの距離が短くなり、バスも暖房と冷房が付いて、乗り心地もよくなり、地元に帰るにはそんな苦になりませんが、3ヶ月の咳が止まらなくて、この移動はさすがにきつく感じました。戸籍は実家に戻すために、地元で手続きをしなければなりません。

このあたりは海岸地域なので、すでに「特別区」と企画されたため、戸籍を凍結されて、出入りは出来ないそうです。中の人と結婚しても、戸籍が入ってこられないそうです。うわさでは4、5年ぐらい経てば、政府に徴収されることになります。大連の周辺の工場はこちらに引っ越すそうです。汚染地域になると、誰も住めなくなるでしょう。

住民の家や周りの木などは全部買ってくれる以外は、一つの戸籍当たり、20万何万元約300万円ぐらいのお金を配給されるそうです。地元から大連まで間に海を渡って、橋を作るために、周辺の海鮮養殖場を全部ストップされて、代金を払われたそうです。それは億単位のものだそうです

今年の春から、地元の人たちは、できるだけのところで、建物を建てたり、木を植えたりすることに忙しかったそうです。政府の弁償を待っています。こんな時に私の戸籍を許可してくれました。夜7時に実家に着きました。

次の日25日の8時に地元の公安部に入りました。

地方になるほどこのような手続きが難しくなります。

担当者のじめじめさん(彼のイメージからあだ名をつけた)は資料を見ながら、「出来るだけ早くやりたいですが、ネットが壊れて、市の公安部のパソコンにつながらなくなりました。沢山の人も待っています。」

「局長と連絡を取りたいです、電話番号を教えてくれませんか。」(局長は不在でした)

「あんたはこの町で有名な女性でしたね、今固定資産を沢山持っているらしいね、いいえ、いいえ、否定しなくてもいいから、取らないよ。」この町のうわさです。

外国に出るとみんな大金持ちになると信じています。私は銀行強盗のために日本行ったじゃないですよ。父はよく町の人に問い詰めてられて、否定しなくなるそうです。

この人と話にはなりません。「どうやって局長と連絡を取れますか?」彼は知らん顔で中に姿を消しました。

これはわざと待たせて、賄賂がほしい技です。

私は向かい側のビルに入りました。この町の政府のビルです。助けてもらえる昔の仲間同士が誰か残っていないと探しました。幸い書記になった一人の友達がいました。書記の部屋に直入しました。この方は昔から真面目で、大人しいです。このような方はこの町に残ってくれて、心の救いを感じます。

書記に局長に電話してもらってから、私からもう一度電話をして事情を説明しました。「急ぐので、ネットは早く復帰できませんか、あるいは他にいい方法はありませんか。」と聞きました。「手配します、返事を待ってください。」と答えてくれました。

すぐにじめじめさんから書記に電話が入ってきて、「書記の友達なんてどうして早く言わなかったですか、今すぐ伺います。」と言いました。書記は直接に公安部を管理し、彼達の成績評価もしています。

じめじめさんは入ってきたら、「ネットが壊れて、昨日も報告していたのに、直してくれなかったよ。このようなことは私たちの部下が出来ることじゃないのよ・・・」と上司の文句連発でした。

「書記のためでも、今日は必ずやります。頭が地面に落ちてもやります。(中国の諺)ところで、書記は市の教育部に知り合いはいませんか、後で姪の進学の件でサインにしてもらいに行かなければなりません・・・・・」

話が聞くほど腹が立ちました。十年何年ぶりに再会した友達にこんな迷惑を・・・けれども、この友達はいなければ、今日のことは本当にどうなるか分かりません。

じめじめさんはいなくなってから「書記の前でこんな大胆に?この人を首に出来ませんか?」「彼は正式の公務員だから、私たちは首にする権利はありません、遠くに飛ばしたり、移動したりは出来ます。また上司も悪いからね。」これは共産党の公務員のシステムです。

じめじめさんは地元の人間ではありません、何処から飛ばされてきたものです。

結局一番早い方法は、隣の町で入力することにしました。次回お楽しみに!

 



2011.11.13 中国での三日間の集中レポート③

時間はすでに昼に近づいてきました。じめじめさんの車に乗ったら、「あなたがすばらしい女性と聞いていましたが、ずっと会って見たかったです。大連に200平米ぐらいのマンションを持っているだっけ・・・・日本のカメラがいいですね・・・・」と電気製品までほしいということです。

町のうわさが何処まででしょう。この町を離れて15年もあるのに、今でも私についてのうわさが絶っていません。今の中国では共産党の幹部は成績で評価されます。どれほど経済を発展させるだけです。どれほど不合理的で環境を壊しているかを問われていません。庶民は全てお金で人を評価します。

日本人はよく平気でお金がないと言えますが、中国人は決して口に出しません。持っていなくても、持っているふりをします。私はお金を持っていないと言っても、地元で誰も信じてくれないでしょう。この社会では人に相手にされるために権力を持つか、お金を持つかどちらかということです。今回は市長が特命を出してくれなければ、私はどんなお金を使っても、戸籍を戻せないでしょう。特命を出してもらった以上、1元でもこの人たちに無駄使いをしたくありません。

ここで我慢しなければ、また時間を無駄にされるし、友達にもさらに迷惑をかけてしまうかもしれません。私は無言のままに隣の町に着きました。そこのパソコンを借りて、入力を始めましたが、じめじめさんはなんとピンインを打てなくて、漢字の変換はできません。(私の日本人生徒たちも出来るのに・・)町の名前さえも入力できなかったのです。

こんな人はパソコンの管理をしています。私の戸籍証明書を何回も書いてもらったのに、いつも違う内容を書きました。今回は「日本へ留学」ではなく「日本へ定住」と書きました。ハンサムさんはなんとかしてくれなければ、また1日無駄にされてしまうでしょう。

これだけではなく、いろいろな話が割り込んできて「今の時間は残業ですね、日本では残業はお金を払わないの・・・」どうしてもお昼をご馳走させたい、あるいは何かもらいたいということでした。残ったワンカートンの日本のタバコは大連に忘れました。あのタバコさえがあればこんなじめじめな話を聞かなくてもすむのに・・・・やっと私の名前が父と母の戸籍帳に印刷されました。

じめじめさんはすぐに書記に電話しました。「今出来ましたよ、彼女をお昼にご馳走しますよ。」私はすぐに電話を渡してもらって、「全て私のほうでちゃんとやっていますから、ご心配はいりません。」と書記に迷惑をかきたくなかったからです。私はカバンから200(約2700)を取り出して、「お昼は付き合うことは出来ませんが、少ないですけどこれをお昼に使ってください。」と言いながら「あなたのような人間と食事すれば、太陽が西側から昇ってくるときです。」と心でつぶやいていました。(中国の諺)

じめじめさんはお金をカバンに戻してくれました。大人ですからこのぐらいの遠慮があるでしょう。私はこれ以上薦める気もなく、タクシーに乗って、逃げ出しました。12時過ぎました。

午後2時に、また公安部に行って、写真を撮り、身分証明書を作らなければなりません。

担当者は私と昔に何回も面識があり、家族のこともよく知っているため、笑顔満面で迎えてくれました。

ここのカメラはスイッチを押す前に、画像が見えないらしいです。そのために繰り返し取られました。担当者は「どうしますか、今日はほしければ、市(瓦房店市)に取りに行きますよ。」と言いました。ここで写真を撮って、市で証明書を発行することになるのです。往復で2時間かかるところです。

私は義理の兄を廊下に呼んで200元を渡して、「私から直接に渡すと、彼が気まずいから、兄さんから渡して」と小さい声で話しました。私の一人の身分証明書のために、取りに行ってくれるから私のための特務です。交通費含めてこのお金を払うべきだと思っていました。彼は正式の公務員ではなく、日本の派遣社員のようなものなので、じめじめさんより姿勢が低く、頭がいいです。やってくれれば、必ずお金を払うのを承知しているからです。

午後の5時に、ベッドに横になっている弱弱しい(お腹が壊したから)私はまた義理の兄に呼ばれて、「写真をもう一度撮らなければなりません、前の写真が合格できなかったそうです。」「冗談じゃないよ、ただの臨時の3ヶ月の身分証明書のために、あの写真はだめでしたか?」(正式の身分証明書は3ヶ月もかかるそうです)と全身の力を絞って声を上げました。

しょうがなく兄の車に乗って、公安部に入って、もう一度写真を取らせられました。帰りに兄は「写真の不合格はうそかもしれません、市に1回往復だけで200元ももらうと、彼は気持ちがちょっと重かったかもしれませんね。」と言っていましたが、私は無言のままで話す力はありませんでした。

次の日26日の8時半に、義理の兄は公安部から身分証明書を取ってくれました。日本へのビザは難しかったですが、この身分証明書を再び手にしたのはそう簡単ではありませんでした。私は9時の大連へのバスに乗り、父と義理の兄の見送りで大連に向いました

 以上の3日間の出来事をありのままに書きあげました。

2010年9月10日

  

 

2011.11.13 中国での三日間の集中レポートのあとがき

じめじめさんをそのままほったらかしてはいけません。私はこのまま居なくなったら、必ず義理の兄を掴んでご馳走させたり、また何かになると家族を困らせたりすることになります。

「大連に残ったワンカートンのタバコをじめじめさんにあげるから、代わりに蹴ってくれませんか」と義理の兄に言いました。

戸籍の婚姻欄には「状況不明」と記録されています。戸籍帳と身分証明書を持って、市の婚姻届を出すところに行って、独身証明書を出してもらってから、この婚姻欄に「独身」に変えることは出来ます。今回は時間的に体力的に限界です。また次回に帰ってきてから、やります。これをやっておかないと、またいつ何処で問題になるかわかりません。

皆さんは大変だなと思っている方は多いでしょう。私にとって13年ぶりの快挙でした。気を狂わせるぐらい理不尽なことよりこちらのほうがマシです。この3日間が終わってから、うれしさも感動も無くて、呼吸がスムーズにしているだけを感じていました。

生まれてから常にこのような「試練」にさらされてきました。最初は農村戸籍の問題、それから日本のビザの問題に付きとまわれてきて、(これについて、以前に書いていたものをチャイナリニアにホームページに乗せています)この4,5年にまた自分の国での戸籍の問題に常に苦しめられてきました。

一つだけの例を挙げます。私は一度独身証明書を出すために、瓦房市の婚姻届の機関に行ったら、(大連から片道で2時間以上かかります)戸籍帳と身分証明書はないから出来ません。

大連の渉外婚姻部に行ってみたほうがいいと教えられて、そこに行ったら出来ません。大連にある日本の大使館なら出来るかもと言われて、大連の領事館はこちらと関係ないと答えました。もしかしたら、東京にある中国の大使館あるいは区役所はできなる・・・・結局あきらめて、タバコで問題を解決しました。(最初からすればよかったのに)これでどうして中国では賄賂あれほど横行しているか少し分かるでしょう。

(タバコぐらいは賄賂とはいえません、潤滑油だけです)白より黒のほうがやりやすいときが多いからです。そんなみんなやりやすい、生きやすいような社会的なルールや制度などがちゃんと出来ていないからです。比べるとこの3日間は快感的な3日間だと思いませんか。

 年前に、ある日本の方が日本の外務省を通して、中国の外務省に「どうして戸籍はないか」と問い合わせくれました(その時政策だということは私も知りませんでした。その方も戸籍がないことに不思議に思っていたから。) 答えは「税金を払っていないから戸籍を削除された可能性は大きいです。」全ての日本人はこの話を聞いたら信じるでしょう。

あの田舎で義務教育ぐらい税金以外は、収入さえもないのに、何があるでしょう。政策だということはその外務省の方が知っていたかどうか分かりませんが、警戒して自分を綺麗にするために作った話ではないかと思っていました。もし日本の外務省からではなく、個人だったら、答えは違ってくるでしょう。私はいきなり脱税者になり弁解の余地もありませんでした。・・・・・中国なら平気ですが、日本ではツボにあったことでしょう。さすがに外務省の方です。

私の経験は中国人の中でも特別な例でしょう。あのような田舎からあんな早い時期に日本まで留学できたのは珍しかったからです。誰も通っていなかった道を私は先に通っていただけだからです。全てを乗り越えるには、相当なエネルギーと根性と忍耐が必要です。


この問題で困らせる中国人は少なくないでしょう。このきっかけでこの問題を一気解決されることもないでしょう。(私は1997年に来日、それ以後はこの政策がなくなったそうです)

とにかく、大連市長に真心をこめて、感謝の手紙をかけなければなりません。もしあのじめじめさんの名前と彼はやっていることを一緒に添付すれば、彼の首は確実に飛ばされるでしょう。じめじめさんは本当に無能な弱いもので共産党のすねにしがみついて、落ちこぼれないように、踏みつけられないように必死に生きています。根本な原因は彼ではありません。彼ぐらいの首を飛ばしても、問題の可決にはならないからです。

人間は環境に従うものです。特に中国人か日本人かアメリカ人ではありません。この記事を読んで理解できないか方は多いでしょう。日本と比べてはいけません。途上国は途上国です。たったの十年、二十年で先進国と同じようになるのは無理でしょう。まだ追いつかされていないうちに、先進国の国民としての優越感をたっぷり味わっておいてください。

これでも眼で見えるほど、全て改善されてきています。公務員の仕事の態度や、システムなどは少しずつ明るく、便利になってきています。すべていい方法に向っています。私たちは見守るしかないでしょう。

今年日本の永住権も許可されると思います。もうすぐ私は全面的に解放されるでしょう。このような衝撃的なレポートをもう二度と書けなくなるでしょう()。一つの苦難に終止符を打つ記念のために、この事実をみんなに伝えておきます。これから皆さんと同じように平和に暮らし、(つまらない?笑)そして自由に中国と日本の間に行き来するかな・・・・。

長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。また沢山の方からのメールありがとうございました。

2010911

2011.11.13 時計屋さんの光と影(2010年9月18日)

私の地元の話になると、是非この方を皆さんに紹介させていただきたいです。この方が足の不自由な身体障害者で、町の中で時計の修理屋をやっています。小さいころに「児童麻痺」という病気でこうなったそうです。

この方は頭の良さと物事の理解力と心のもち方はこの町の普通の人を上回っています。生まれつきの芸術才能を持ち、絵も書けるし、彫刻も出来ます。

私は専門学校を卒業してから、美容室を開いて、彼の隣でした。

いつも怖いものを知らない私ですが、サングラスをかけて、町でぶらぶらしている若者達を怖がっていました。(その時私の実家はもっと離れている山の中でした。)

 あの時、この町には沢山のヤクザがいました。よく喧嘩したり、銃で殺しあうことも何回もありました。いつも刑務所に入ったり、出たりしていました。あの時、まだまだ自由に大都市に行ける時代ではないので、若者は行くところも無く、やることも無く、娯楽もなく、全部町に閉じこまれて、エネルギーの発散口は無かったでしょう。

 私はこの町にデビューした新しい顔なので、新鮮感もあり、注目を集めていました。

 普段遊ぶところは無く、美容室のようなところは彼らの遊び場になっていました。

一人の女の子は後ろの支えは無ければ、狼に食べられそうな感じでした。

 この方の助けで、私はその人たちに近づかずに、近づかせないようにできました。彼の人徳で周りをおさまることは出来たからです。

当時政府の若い公務員や青年のリーダー達がよく彼の部屋に集まってきていました。

その関係で青年リーダー達と知り合いになって、あるスピーチコンテストに誘われていました。私は自営業を馬鹿にするような社会の風潮に対してもやもやの気持ちをすっきりしかったため、この方をネタにして登場しました。

 スピーチは大成功しました。スピーチのおかげで、この方も政府に注目され始めました。

ちょうどその時期、共産党は精神教育を始めて、彼はいい人の見本として、あちこち宣伝されて、表彰されてきました。その時鄧小平さんの息子は(鄧小平さんの批判された時期に、飛び降り自殺未遂で、足が不自由になってしまいました。)中央政府の身体障害者協会の会長で、身体障害者はある程度大事にされた分野でした。彼も鄧小平さんの息子とも写真を撮っていました。

 一番絶好調のときに、健康な女性と結婚して、健康なこともが生まれました。

その時の彼の収入は悪くありませんでした。政府で勤めている人たちよりよかったです。

それから私は一番先に外に飛び出しました。大連を経由して、上海へ、また上海から日本に・・・。地元に帰るたびに、必ず彼に会いに行きます。ずっと長い間、地元は何の変化もなく、彼も、仲間同士たちも・・・・


しかし、この4,5年、地元は大きなスピードで大きな変化が起きました。めったに帰らなくなる私は、帰ると、道が分からないぐらいでした。ぶらぶらしている若者はいなくなり、私の仲間達は外に出たり、昇進したり、豊かになってとんとん変わっていきます。

政府で仕事している人たちはみんな自分の車を持ち。あのじめじめさんさえも車も持っているみたいです。

ヤクザたちは頭を絞ってお金を稼ぐことで、精一杯なので、喧嘩する暇もなくなりほとんど町から消えました。その中には億万長者になるものもいます。ヤクザはいつも勝ち組です。

時計屋の場所だけを変えました。町の人口は減っていき、時計はそんなに修理しなくなります。時代が変わって、経済の発展を中心に、政府は洗脳のような材料は必要なくなります。

彼は静かにこの町に取り残されています。貧富差はこういうふうに開けられていきます。

一人の子供を育てるだけで、精一杯でしょう。大学まで送れるかどうかは疑問です。お金が必要ですから。もう若くないし、これから、時計の修理の仕事はまますますだめになるでしょう。彼の素質なら、工場や、オフィスなどの仕事をしても何の問題はありません。きっといいリーダーになるはずです。しかし、この田舎で、そんな環境はまだ夢です。

帰るたびに、何の変化も無いのは彼だけです。私は出来ることは子供へのお小遣いです。

私は彼には仕事と年金のような安定に暮らせる環境を与えられません。

 これからどうなるか分かりません。この町に工場が一杯になるときと、彼の居場所を確保できるかどうか分かりません。時計の修理は出来なくなるときに、どこかの工場でも彼の安定な生活を与えてもらえれば、私の唯一の期待です。

2010918

2011.11.13 埋められない心の穴(2010年9月25日)

埋められない心の穴(2010925)

今夜特に眠れない・・・・

実は私は今回大連で大きな悲しみに包まれながら、色々なことをこなしてきました。

19日に大連に帰る予定だったですが、妙に飛行機に遅れて、成田に一日留まりました。

この日に、私の人生の大事な相談役がなくなれました。

20日の午後に大連に着いたら、お母さんに電話したら、父が葬式に行っているということでした。最後の見送りも間に合いそうもなし、後に行っても、伯母を泣かせるしかなんにもならないため、控えました。

この方はかつて父の先生であり、地元の政府で会計をしていました。地元では珍しい品格のあり、周りから愛されていた方です。私の親はただの農民で相談の相手にはならなくて小さいごろから何でも自分で決めてやってきましたが、大事なときにいつもこの方に相談させてもらいました。

 日本に来てから、この方の家も市に引っ越しました。それから一度も会っていませんでした。私は「いつか会いに行き、この十何年のやっていることを報告します」とずっと頭だけで考えていました。私はやっていることに一番頷いてくれる方なのです。

 そう思っていても、行動はありませんでした。まだまだ時間があると思っていました。すでに70歳ぐらいになっているに。

 確かにあんまり余裕はなかったですが、今から見ればただの口実にすぎませんでした。

 本当になくなられたら、その寂しさと悔しさと悲しさに一気に飲み込まれました。やっとこの一週間ぐらい少し落ち着くようになりました。

日本は忙しい国です。日本中の皆さんはお忙しいです。同じ都市に住んでいても何年も会っていないのも当たり前のことです

私は日本に来てからの10年間の生活では、学んだこととやっていたことの量は中国での30年に匹敵したものだと言っても過言でもありません。

しかし私は仮にどんなに成功しても幸せになってもこのような穴を埋めることにはなりません。

皆さんはお忙しい無意識なところで、大事なこと、大事なもの、大事な人、大事な心を私と同じようにどこかに忘れ物のようにしていませんか。

今夜やっと伯母に電話が出来ましたが、「よくお父さんに聞いていましたよ、“あの子が元気ですか”」と伯母が泣きながら言ってくれました。

今回の発表会の機に、ずっと何年も会っていない日本語学校の先生達に声をかけました。 

 9月25

2011.11.13 食べて、祈って、恋をして(9月26日)

一昨日の夜、「食べて、祈って、恋をして」の映画を見ました。

これまで築き上げた人生を全部破壊して、本来自分にあるべき姿を探すために旅に出た一人の女性のストーリです。映画が終わってから、私は爽やかな気分で映画館から出てきました。

昨夜、生徒の一人の女性に誘われて、食事をしながら、いろいろな話を聞かされました。

彼女は今年いっぱいで、東京をやめて、千葉の実家に帰って、家具づくりの家業を継ぐことにしました。悩みに悩んだ7年間の決断は、恋も結婚も何にもかも置いといて、好きなことだけを優先したということです。

このような自己打破の決断には勇気が必要です。周りの意見や常識に左右されず、決断したものは大抵予想外のいい展開をもたらしてくれます。

人生にかかわる決断は1分間も許されず、3秒以内で決めたものです。

私はこれまでの人生では、このような決断は多かったです。

正直に言うと、東京に長くいるほど、気持ちがどんどん小さくなって、隅まで追い込まれていくような窮屈感が感じます。迷いも多く、以前のような決断の鋭さはなくなり、少し調子が悪いときに正確な判断も出来なくなるときもあります。

周りの日本の方々のお気持ちは分からないときが多いし、メールや電話や話すときも迷いに迷い、慎重に慎重・・・相手のお気持ちは大丈~夫?長くなると、本来の健康的、まっすぐな思考能力神経は少しずつ傷づけられて、細くなっていきます。ひどい場合は、自律神経失調症になるでしょう。私は自分を守るために、なるべく私らしさをさらげだすように努力しています。(日本の方々怒らないでね)

「食べて、祈って、恋をして」の映画を見た女性達はきっとどこかで自分の気持ちと重なっているはずです。

 この映画を見ると、世界は広くなり、気持ちも大きくなりますよ。

一度見るべき。

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