このエピソードが一度人に話したことはありませんでした。
私の専門学校のときの話です。中国で大学に行けずに、農業の学校に入り、林檎園林の専攻していました。
その学校は山の上にあります。周りに林檎園とトウモロコシ畑に囲まれていました。寮も教室も同じビルにあり、一つの学級に一つのクラスしかありませんでした。
学校からバスで20分ぐらいのところに少し古い町があります。
そこから通う学生もいました。
学校は学校らしい緊張感がなく、刺激もなく、私たちのほとんどの時間を無駄にしているように感じていました。
上の部門から審査に来るときだけに、掃除や早朝体操などがきちんと行うようにしていました。
今は中国人にはこのような意識のどのぐらいを残っているかわかりませんが、
そのときの中国人の仕事はほとんど幹部に見せるためにしていました。
上司の目が見えないところで手間をぬいたりしていたのも普通でした。
当たり前の仕事なのに、上司に認めようと、ほめてもらおうとしていました。
今も仕事のミスでもいわれたくない、「メンツ」を絶対的に保とうとしているのは
その「後遺症」ではないかと時には思います。
そもそも学校に対して不満がありました。
さらにある日、ある事件が起きました。
夏のある夕方、私たち寮の中にいました。
いきなり二人の知らない男性が入ってきました。
そして私の鼻先を指で指して「気をつけろ」と言われました。
その二人はその古い町の無職のチンピラです。
二人がいなくなってからわけも分からない私は泣きながら
寮の皆さんに言い始めました「このままでいいんですか、女性の寮にこんな
堂々と入ってもいいんですか、この学校はどうかしていまませんか。明日の授業に
出ないようにお願いします。この件を学校にちゃんと解決にしてもらわないと
終わりはありませんよ。」
リーダーでもない私の話をみんなが聞いてくれました。
次の日、私達が授業に出ないことを担任の先生達に知られました、なんと先生達が
私たちを応援してくれました。普段も先生達も学校に対して不満を溜まっていたからです。
私たちは校長先生に呼ばれて、状況を説明させましたが、学校はそのまま終わろうといましていました。
校長先生と対面するとみんな黙ってしまって何にも言えなくなりました。私だけが一歩も譲らずに、学校と交渉していました、まだ18歳の私の対応の仕方に対して担任先生がびっくりしたようでした。「董さんのしゃべり方にはポイントがいいですね」と褒めてくれました。
校長先生はなんの答えもなくそのままにほったらかされていましたが、納得できず、
授業に復帰を拒否し続けました。
1ヶ月ぐらいごろ、市の教育部が内の学校で会議を行い、そのリーダーが市から来たクラスメートの元の中学校の校長先生でした。彼女に頼んでその方に今の学校の状況をすべて話しました。
それで、すぐに私が警察の方に呼ばれて、事件の経緯を聞かれました。そしてしばらくたってから、その二人のチンピラが「今後学校に来てはいけないことと彼女の身の安全の問題があれば、責任を追及される」という警告をされたそうです。
結局私たちの勝利でこのボイコットを終えました。
しかし、その後担任先生が交換されました。私も休暇を取って、市の美容教室に免許を行きました。一ヶ月ぐらいで免許をとって学校に戻ってきたとき、新しい学期が始まり、市から新しい校長先生が移動してきました。 学校はだんだん学校らしくなってきて、一学期が終わったら、私たちは卒業しました。そのおかげで次の後輩達は私達より学校らしいい環境で勉強できたでしょう。
2012年1月4日 in 上海