2011.11.13 時計屋さんの光と影(2010年9月18日)
私の地元の話になると、是非この方を皆さんに紹介させていただきたいです。この方が足の不自由な身体障害者で、町の中で時計の修理屋をやっています。小さいころに「児童麻痺」という病気でこうなったそうです。
この方は頭の良さと物事の理解力と心のもち方はこの町の普通の人を上回っています。生まれつきの芸術才能を持ち、絵も書けるし、彫刻も出来ます。
私は専門学校を卒業してから、美容室を開いて、彼の隣でした。
いつも怖いものを知らない私ですが、サングラスをかけて、町でぶらぶらしている若者達を怖がっていました。(その時私の実家はもっと離れている山の中でした。)
あの時、この町には沢山のヤクザがいました。よく喧嘩したり、銃で殺しあうことも何回もありました。いつも刑務所に入ったり、出たりしていました。あの時、まだまだ自由に大都市に行ける時代ではないので、若者は行くところも無く、やることも無く、娯楽もなく、全部町に閉じこまれて、エネルギーの発散口は無かったでしょう。
私はこの町にデビューした新しい顔なので、新鮮感もあり、注目を集めていました。
普段遊ぶところは無く、美容室のようなところは彼らの遊び場になっていました。
一人の女の子は後ろの支えは無ければ、狼に食べられそうな感じでした。
この方の助けで、私はその人たちに近づかずに、近づかせないようにできました。彼の人徳で周りをおさまることは出来たからです。
当時政府の若い公務員や青年のリーダー達がよく彼の部屋に集まってきていました。
その関係で青年リーダー達と知り合いになって、あるスピーチコンテストに誘われていました。私は自営業を馬鹿にするような社会の風潮に対してもやもやの気持ちをすっきりしかったため、この方をネタにして登場しました。
スピーチは大成功しました。スピーチのおかげで、この方も政府に注目され始めました。
ちょうどその時期、共産党は精神教育を始めて、彼はいい人の見本として、あちこち宣伝されて、表彰されてきました。その時鄧小平さんの息子は(鄧小平さんの批判された時期に、飛び降り自殺未遂で、足が不自由になってしまいました。)中央政府の身体障害者協会の会長で、身体障害者はある程度大事にされた分野でした。彼も鄧小平さんの息子とも写真を撮っていました。
一番絶好調のときに、健康な女性と結婚して、健康なこともが生まれました。
その時の彼の収入は悪くありませんでした。政府で勤めている人たちよりよかったです。
それから私は一番先に外に飛び出しました。大連を経由して、上海へ、また上海から日本に・・・。地元に帰るたびに、必ず彼に会いに行きます。ずっと長い間、地元は何の変化もなく、彼も、仲間同士たちも・・・・
しかし、この4,5年、地元は大きなスピードで大きな変化が起きました。めったに帰らなくなる私は、帰ると、道が分からないぐらいでした。ぶらぶらしている若者はいなくなり、私の仲間達は外に出たり、昇進したり、豊かになってとんとん変わっていきます。
政府で仕事している人たちはみんな自分の車を持ち。あのじめじめさんさえも車も持っているみたいです。
ヤクザたちは頭を絞ってお金を稼ぐことで、精一杯なので、喧嘩する暇もなくなりほとんど町から消えました。その中には億万長者になるものもいます。ヤクザはいつも勝ち組です。
時計屋の場所だけを変えました。町の人口は減っていき、時計はそんなに修理しなくなります。時代が変わって、経済の発展を中心に、政府は洗脳のような材料は必要なくなります。
彼は静かにこの町に取り残されています。貧富差はこういうふうに開けられていきます。
一人の子供を育てるだけで、精一杯でしょう。大学まで送れるかどうかは疑問です。お金が必要ですから。もう若くないし、これから、時計の修理の仕事はまますますだめになるでしょう。彼の素質なら、工場や、オフィスなどの仕事をしても何の問題はありません。きっといいリーダーになるはずです。しかし、この田舎で、そんな環境はまだ夢です。
帰るたびに、何の変化も無いのは彼だけです。私は出来ることは子供へのお小遣いです。
私は彼には仕事と年金のような安定に暮らせる環境を与えられません。
これからどうなるか分かりません。この町に工場が一杯になるときと、彼の居場所を確保できるかどうか分かりません。時計の修理は出来なくなるときに、どこかの工場でも彼の安定な生活を与えてもらえれば、私の唯一の期待です。
2010年9月18日