2011.11.13 初 恋⑤2011年3月7日
10月は上海の一番言い季節なのに、なんとなく暗かったいめーじでした。
彼は空港に迎えに来てくれました。
私と会ったとたん、一つの封筒を渡してくれました。
「中に5000元が入っています。今回のお誕生日の費用です。」と言いました。
空港から直接にタクシーを捕まえて、案内し始めました。
夜に上海の「和平飯店」に泊らせて、彼は1人で家に帰りました。
「和平飯店」はあの上海の有名な「上海外灘」に近くの南京路にあります。
その時上海の一流ホテルでした。(今はそんな格が落ちていないでしょう。)
1泊800元でした。(封筒の金を使わずに彼が払ってくれました。)
次の日の朝、ホテルに迎えてきてくれて、タクシーを呼んで、上海の郊外の
観光スポット「周庄」に連れて行ってくれました。
その時「周庄」は観光客が少なく静かでまだ開発もされていませんでした。
けれども、とても香ばしい古風で、飽きなく味あわせたのです。
しかし、5、6年後にもう一度行くと、確かに明るくなってきました。
にぎやかで赤いちょうちんがいっぱい引かれて、レストランも沢山
出来ていましたが、
一回目の心にしみ込まれる雰囲気はもうありませんでした。それきりで
「周庄」に3度目行きませんでした。今は大分「現代的」になっているでしょう。
タクシーを2日間で借切して、上海の全てに観光スポットなど案内してくれました。
運転手は1人の女性でしたが、郊外に行くと道が分からなくて、人に聞いても
だまされて逆の方向に走っていたことを覚えていました。
4日目、空港まで送ってくれて、分かれるとき、彼はあるものを私の手に
渡しました。「これは記念品です。」
それは日本のテレフンカードでした。全部で30何枚ぐらいでした。
私に電話するために使ったテレフンカードでした。
大連に戻って、毎日彼を思いながら、学校を通って、そして、一日一回ぐらい、
公衆電によって、過ごしていました。
12月の末ぐらい、彼は電話で「上海に転勤しました。上海で事務所を設立します。
上海についてきてくれませんか。」といきなり言いました。
「学校はどうしますか、一年の学費を払ったばかりなのに・・・」
「学費は戻してもらえなければ、いらないから、とにかく上海に来てください。」
・ ・・・・
ということで私は大連を離れて、再び上海に飛びました。
2回目に飛行機に乗るとき、ほぼ同じ時間で、私の姪の笛ちゃんが生まれました。
こうして私達は正式に交際し始めました。
彼は私を迎えるために、上海中にあの時のタクシーの女性運転手を探しました。
(事務所には専用の車が必要です。その時タクシーと運転手をセットで
借り切りにすることは多かったです。)
彼女のタクシーは個人用で、なかなか見つかりませんでした。
最後に急にあの時彼女はある果物屋で果物を買ってもらうとき、
知り合いのように話をかけていたことを思い出して、そこに聞いたら、
女性運転手をやっと見つかりました。
こうして私は上海で人生の新しいスタートを始めました。2年以上で彼の
過保護の下で暮らしました。
結果として、今通りに私達は結婚せずに、別々の道を歩みました。
私を日本に送り込んだのは彼です。彼と彼の元の奥さんと彼の周りの
友達を含めて暮らしていた日本はどんな状況なので、自分の目で確認して
みたかったのです。
彼達は日本のバブルの真っ最中に日本にやってきました。
その時の中国人は、この国で自分の未来を開くと考えていませんでした。
とにかくどんな手段でも、お金を稼いで、持ち帰りたいです。
彼達は涙と無念を飲み込み、プライトと人格までこの日本に捨てました。
お金さえがあれば、持って帰れば、もう一度中国で日本に捨てたものを
取り戻そうとしていました。
果たして取り戻せたのか、この答えは彼達自分しか分かりません。
これについて詳しく書くかどうか、少し考えさせていただきたいです。