2011.11.13 停 電 2011年5月10日
みなさん夏に向けて停電の心配で不安が募っているでしょう。
停電の不安より、これ以上経済を悪化させることのほうが心配ですね。
停電ってどんな感じでしょうか。
日本の団塊世代以後の方はほとんど経験したことはないでしょう。(?
いつの間にか停電の感覚が忘れてしまいました。
小さいころ停電は当たり間のことでした。
工場などの大量に電気を使うものの無い田舎では、
照明ぐらいしかなかったのに・・・
私の記憶では、一番つらいのはドラマの最中の停電でした。
小学生のときの私はラジオやテレビドラマが大好きでした。
一番楽しいことだったかもしれません。
夕方に上学生から中学生ぐらい子供に向けるラジオ番組と
幼稚園ぐらいの子供に向ける番組がありました。
その時間はちょうど夕食の準備時間でした。
ガスのない時代では、石炭も節約するために、薪をよく燃やしました。
それは「草鍋」と呼びました。
しかし薪らしいものもなく、(山には森が無いから、燃料しての木材も無かった。木材は中国では貴重なものです。)
とうもろこしの茎などがメインでした。
絶えずに茎をいれないと、火が消えるので、ずっと面倒を見なければならなないため、
みんな嫌がっている仕事でした。それが私の仕事になっていました。
ラジオ番組の時間になると、私は椅子の上に立って、私の胸の辺りの
高さのタンスに上半身をかけて、タンスの奥に置いたラジオに耳を貼り付けてしました。、
ご飯を作る時間になると、姉達の呼ぶ声が叫日声でないと、
聞こえないぐらい夢中になっていました。そのことで何時も怒られていました。
夜になるとテレビの時間だし、停電の時間でもありました。
当時連続ドラマが中国にはまだなかったのです。放送されていたのは
日本のドラマです。「赤いシリーズ」(山口百恵)「アタックナンバーワン」
アニメの「一休さん」「鉄腕アトム」などなど・・・・
その時食事が終わると、すぐに布団に入りました。特に冬では。
一つの部屋で一つのオンドルの上に六人姉妹が並んで横になりました。
6個の頭が枕を立てて、レテビに向けていました。
大抵辛抱強く最後まで見るのは私だけかあるいはすぐ下の妹と2人ぐらいでした。
「ぱっ」と音がすると、部屋が真っ黒になりました。停電でした。
部屋がシーンとして、肝心なところで切られてしまったから、
気持ちはすぐにドラマから出られませんでした。
しばらく経つと少しずつ、無言のままに布団に入る音だけが聞こえました。
「その後はどうなっているの?」と頭でずっと考えて
なかなか眠れませんでした。
2011年5月10日